横綱が負けても誰も驚かない。スポーツ紙の扱いも冷淡。横綱も大関並みに陥落させては。




1999ソスN11ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 09111999

 推理小説りんごの芯に行き当たる

                           小枝恵美子

理小説は「行き当たる」楽しさを求めて読む読み物だ。複雑に設定された謎を、作家に導かれながら解いていく楽しみは、夜長の季節にこそふさわしい。句の作者は、林檎を齧りながら、そんな本のページに心を奪われている。夢中になって読みふけっているうちに、あろうことかガリッと「行き当たった」のは、作中の犯人にではなく、林檎の芯だったという苦い可笑しさ。いや、酸っぱい可笑しさ。びっくりして、思わず手にした林檎の様子を見つめている作者の顔が見えるようである。伝統的な「花鳥諷詠」とは懸け離れた次元で、俳句はかくのごとくに現代生活の機微を表現できるという見本にしたいような作品だ。作者は俳誌「船団」(大阪)のメンバーで、他にも「ケンタッキーのおじさんのような菊花展」「りんご剥くクレヨンしんちゃん舌を出す」などの愉快な句がある。俳句をはじめてまだ六年だそうだが、この自由闊達な詠みぶりからして、今後のそれこそ「行き当たる」ところの愉しみな人だ。『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)


November 08111999

 山の子が独楽をつくるよ冬が来る

                           橋本多佳子

楽は新年の季語だが、ここでは「冬が来る」のだから「立冬」に分類する。文字どおりの「山の子」であった私には、思い当たる句だ。山国への寒さの訪れは早い。いかな「山の子」でも、この季節になると山野を駆けめぐるなどの遊びはしなくなる。遊び場を、室内に切り替えるのだ。女の子はお手玉遊びをやっていたようだが、男の子は独楽回しに熱中した。農家には土間がある。そこで回す。村の万屋(よろずや)には出来合いの独楽も売ってはいたけれど、誰も買わなかった。もっと安い鉄の心棒と輪だけのセットを買ってきて、本体は小刀で丹念に木を削って作った。仕上げるのには、何日もかかった。ただし、作者が見たのはもっと素朴な独楽づくりの様子だったのかもしれない。木の実に爪楊枝のような細い木をさすものとか、丸い厚紙にマッチ棒の心棒をさすだけのものとか……。そういうものも作ったが、やはり鉄の心棒と輪とで作った独楽は頑丈だったし、互いにはねとばしあう遊びもできたので、なんだか知らないが「ホンカクテキ」だと思っていた。おかげで、いまでも独楽はちゃんと回せる。もはや、淋しい技術に成り果ててはいるけれど。(清水哲男)


November 07111999

 銀杏黄葉大阪馴染なく歩む

                           宮本幸二

杏黄葉(いちょうもみじ)は、この四文字で一つの季語。他にも「葡萄紅葉」「雑木紅葉」など、同じ「もみじ」でも、いくつか特別扱いの「もみじ」季語がある。ところで、一般的に「もみじ」ないしは「こうよう」を「紅葉」と表記するようになったのは平安時代以降のことで、それまでは「黄葉」と書くのがが普通だったという。ちなみに、Macintosh添付のワープロで「もみじ」と打つと「紅葉」としか出てこない。あなたのワープロ辞書ではどうですか。句の舞台は、晩秋の大阪の街。おそらく、梅田から難波に通じる御堂筋だろう。ビジネス街だから、作者は出張で出かけたのだ。仕事もすんで御堂筋を大阪駅に向かって歩いている。馴染みのない街を歩くのは所在ないもので、街全体が無表情に見える。延々とつづく銀杏並木の黄葉は風情を誘うどころか、かえって街をより抽象化しているようだ。私も、サラリーマン時代に何度か出張を経験したが、好きではなかった。とくに一泊して帰る日が休日だと、朝方のビジネス街の人影はまばらだし、なぜ俺はこんなところを歩いているのかと無性に腹立たしかった。(清水哲男)




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