キャノンゼロワンショップ吉祥寺店が12月12日に閉店。店員は淋しそう。地域情報でした。




1999ソスN11ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 13111999

 藁屋根に鶏鳴く柿の落葉かな

                           寺田寅彦

者は物理学者、随筆家。漱石『三四郎』の登場人物・野々宮宗八のモデルとしても有名だ。さすがに科学者らしく、寅彦の句作姿勢は理論的であった。すなわち「俳句はカッテングの芸術であり、モンタージュの芸術である」と。森羅万象のなかから何を如何に切り取り、それを十七文字のなかに如何に巧みに配置するのか。そういう方法で成立する「芸術」だと言っている。俳句はロシアの映画監督・エイゼンシュテイン(『戦艦ポチョムキン』など)の映像技術に影響を与えたが、寅彦の理論とぴったり符合する。見られる句と同じように、他の寅彦作品でも、心情や感情を生で吐露したものはない。徹底的に「カッテング」と「モンタージュ」を繰り返しながら、自分なりの小宇宙を作り上げようとした。掲句も、きわめて映像的な趣を持っている。「鶏鳴」と「柿落葉」の取り合わせ。モンタージュ的にはいささか付き過ぎの感もあるけれど、往時の光景はよく見えてくる。ちなみに、作句は1900年の晩秋だ。前世紀末のこの国の日常的な光景のスナップである。とくに草深い田舎の光景ということではないだろう。『寺田寅彦全集』(1961・岩波書店)所収。(清水哲男)


November 12111999

 どぶろくの酔ひ焼鳥ももう翔ぶころ

                           園田夢蒼花

語は「どぶろく(濁り酒)」。新米を炊いて作ることから、秋の季語とされてきた。多くは密造酒なので、酒飲みには独特の情趣が感じられる季題だ。後ろめたさ半分、好奇心半分で、私も何度か飲んだことはある。当たり外れがあり、すぐに酸っぱくなるのが欠点だ。ところで、作者はまことに上機嫌。焼いている雀か何かが間もなく飛翔するかに見えるというのだから、快調な酔い心地だ。この場に下戸がいたとすると、冷たい目で「だから、酒飲みは嫌いだよ」と言われそうなほどに酩酊している。私も飲み助のはしくれだけれど、大人になってから(!?)は、こんなふうに天衣無縫に酔えたことは一度もない。どうしても、どこかで自制の心が働いてしまうのだ。山口瞳の言った「編集者の酒」の癖が、すっかり身に染みついてしまっているからだろう。作者が、うらやましい。でも、子供のころ(!?)には、この人みたいに酔ったことはある。気がつくと、深夜の道ばたで寝ていた。なんだかヤケに顔が冷たいなと思ったら、雪が降っているのだった。PR誌「味の味」(1999年11月号)所載。(清水哲男)


November 11111999

 枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

                           松尾芭蕉

れっ、どこか違うな。そう思われた読者も多いと思う。よく知られているのは「かれ朶に烏のとまりけり秋の暮」という句のほうだから……(「朶」は「えだ」)。実は掲句が初案で、この句は後に芭蕉が改作したものだ。もとより推敲改作は作者の勝手ではあるとしても、芭蕉の場合には「改悪」が多いので困ってしまう。このケースなどが典型的で、若き日の句を無理矢理に「蕉風」に整えようとしたために、活気のない、つまらない句になっている。上掲の初案のほうがよほどよいのに、惜しいことをする人だ。「とまりたるや」は、これぞ「秋の暮」を象徴するシーンではないか。「ねえ、みなさんもそう思うでしょ」という作者の呼びかける声が伝わってくる。それがオツに澄ました「とまりけり」では、安物のカレンダーの水墨画みたいに貧相だ。私の持論だが、表現は時の勢いで成立するのだから、後に省みてどうであろうが、それでよしとしたほうがよい。生涯の表現物をきれいに化粧しなおすような行為は、大袈裟ではなく、みずからの人間性への冒涜ではあるまいか。飯島耕一が初期の芭蕉を面白いと言うのも、このあたりに関係がありそうだ。「エエカッコシイ」の芭蕉は好きじゃない。(清水哲男)




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