今日の「朝日」に、大串章が我々の昔の同人誌「青炎」について書いています。ご一読を。




1999ソスN11ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 14111999

 穴惑ひ生きる日溜まりやはりなし

                           つぶやく堂やんま

語は「穴惑ひ(あなまどい)」。冬眠すべく仲間はほとんど穴に入ってしまったのに、いつまでも地上を徘徊している蛇のことだ。それこそ「蛇蝎(だかつ)」のように蛇を嫌う人は多いが、しかし、このような季語が存在するのは、日本人にとっての蛇が極めて身近な生物であったことの証明である。嫌いだけれど、とても気になる生き物だったのだ。暖かいからといって、まだうろうろしている姿に馬鹿な奴だと苦笑しつつも、他方では少し心配にもなっている。句は逆にそんな蛇の気持ちを代弁しており、実は馬鹿なのではなく、必死に地上生活を望んでいるのだが、ついに果たせないあきらめを描いていて秀逸だ。「やはり」と言う孤独なつぶやきはまた、ついに夢を果たせない私たちのつぶやきでもある。深刻になりがちな世界を、さらりと言い捨てた軽妙さもなかなかのものだ。地味だが、とても味わい深い。再来年21世紀の初頭は「巳年」である。大いなる「穴惑ひ」の世紀になるような気がする。そのときには、誰かがきっとこの句を思い出すだろう。『ぼんやりと』(1998)所収。(清水哲男)


November 13111999

 藁屋根に鶏鳴く柿の落葉かな

                           寺田寅彦

者は物理学者、随筆家。漱石『三四郎』の登場人物・野々宮宗八のモデルとしても有名だ。さすがに科学者らしく、寅彦の句作姿勢は理論的であった。すなわち「俳句はカッテングの芸術であり、モンタージュの芸術である」と。森羅万象のなかから何を如何に切り取り、それを十七文字のなかに如何に巧みに配置するのか。そういう方法で成立する「芸術」だと言っている。俳句はロシアの映画監督・エイゼンシュテイン(『戦艦ポチョムキン』など)の映像技術に影響を与えたが、寅彦の理論とぴったり符合する。見られる句と同じように、他の寅彦作品でも、心情や感情を生で吐露したものはない。徹底的に「カッテング」と「モンタージュ」を繰り返しながら、自分なりの小宇宙を作り上げようとした。掲句も、きわめて映像的な趣を持っている。「鶏鳴」と「柿落葉」の取り合わせ。モンタージュ的にはいささか付き過ぎの感もあるけれど、往時の光景はよく見えてくる。ちなみに、作句は1900年の晩秋だ。前世紀末のこの国の日常的な光景のスナップである。とくに草深い田舎の光景ということではないだろう。『寺田寅彦全集』(1961・岩波書店)所収。(清水哲男)


November 12111999

 どぶろくの酔ひ焼鳥ももう翔ぶころ

                           園田夢蒼花

語は「どぶろく(濁り酒)」。新米を炊いて作ることから、秋の季語とされてきた。多くは密造酒なので、酒飲みには独特の情趣が感じられる季題だ。後ろめたさ半分、好奇心半分で、私も何度か飲んだことはある。当たり外れがあり、すぐに酸っぱくなるのが欠点だ。ところで、作者はまことに上機嫌。焼いている雀か何かが間もなく飛翔するかに見えるというのだから、快調な酔い心地だ。この場に下戸がいたとすると、冷たい目で「だから、酒飲みは嫌いだよ」と言われそうなほどに酩酊している。私も飲み助のはしくれだけれど、大人になってから(!?)は、こんなふうに天衣無縫に酔えたことは一度もない。どうしても、どこかで自制の心が働いてしまうのだ。山口瞳の言った「編集者の酒」の癖が、すっかり身に染みついてしまっているからだろう。作者が、うらやましい。でも、子供のころ(!?)には、この人みたいに酔ったことはある。気がつくと、深夜の道ばたで寝ていた。なんだかヤケに顔が冷たいなと思ったら、雪が降っているのだった。PR誌「味の味」(1999年11月号)所載。(清水哲男)




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