年賀状のデザイン作成。毎年、ここまでは素早い。12月20日までの記念消印に間に合うか。




1999ソスN11ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 16111999

 隣席を一切無視し毛糸編む

                           右城暮石

者は、明らかに「むっ」としている。「隣席」というのだから、電車のなかだろう。たまたま坐った隣席の女性が、一心に毛糸を編んでいる。一心はよろしいが、電車が揺れるたびに、編み棒やら毛糸玉やらがこちらの領域を侵蝕してくる。気になって仕方がない。明治生れ(明治32年)の作者の気持ちを現代語に翻訳しておけば、「チョーむかつく」というところか。最近はあまり見かけないけれど、昔は電車のなかでの編み物は珍しくなかった。隣り合わせてしまったら、あれは災難としか言いようがない。しかも私は尖端恐怖症気味だったので、隣席の編み棒は辛かった。「むかつく」けど文句も言えず、辛すぎるときには立って別の車両に移ったこともある。冬の季語としての「毛糸編む」。たいていの句が微笑を伴った作りになっているのに、暮石はとても不機嫌である。この不機嫌が、読者にはどこかユーモラスにも響くところに味がある。いま思い出したが、二十年ほど前、ラジオをはじめたころのスタジオでの相棒が、毛糸を編みながら放送しはじめたのにはたまげた。しかも、生放送。聞いている人は、彼女が編み棒を操りながら喋っているとは知らなかったろうが、目の前の私としては、素朴に「ああ女は強し」と思いましたね。『右城暮石「天狼」発表全句』(1999)所収。(清水哲男)


November 15111999

 院長のうしろ姿や吊し柿

                           大木あまり

立ての妙。そして、人間の不可解な感情のありどころ。院長は、病院の院長だろう。病院で院長が登場するとなれば、多くの場合、患者の家族に対しての深刻な話があるときと決まっているようなものだ。話し終わった院長が「そういうわけですから、よくお考えになって……」と席を立ち、くるりと後ろを向いた。目を上げた作者は、とたんになぜか「あっ、吊し柿に似ている」と思ってしまった。彼の話の中身はやはり深刻なもので、作者はうちひしがれた気持ちになっているのだが、「吊し柿」みたいと可笑しくなってしまったことも事実なのだし、その不思議をそのまま正直に書きつけた句だ。こういうことは、誰の身にも起きる。葬儀の最中に、クスクス笑いがこみあげてくることもある。不謹慎と思うと、なおさら止まらない。あれはいったい、何なのだろうか。どういう感情のメカニズムによるものなのか。そして、古来「吊し柿(干柿)」の句は数あれど、人の姿に見立てた句に出会ったのははじめてだ。読んでからいろいろと想像して、この院長は好きになれそうな人だと思った。もちろん、作者についても。『雲の塔』(1994)所収。(清水哲男)


November 14111999

 穴惑ひ生きる日溜まりやはりなし

                           つぶやく堂やんま

語は「穴惑ひ(あなまどい)」。冬眠すべく仲間はほとんど穴に入ってしまったのに、いつまでも地上を徘徊している蛇のことだ。それこそ「蛇蝎(だかつ)」のように蛇を嫌う人は多いが、しかし、このような季語が存在するのは、日本人にとっての蛇が極めて身近な生物であったことの証明である。嫌いだけれど、とても気になる生き物だったのだ。暖かいからといって、まだうろうろしている姿に馬鹿な奴だと苦笑しつつも、他方では少し心配にもなっている。句は逆にそんな蛇の気持ちを代弁しており、実は馬鹿なのではなく、必死に地上生活を望んでいるのだが、ついに果たせないあきらめを描いていて秀逸だ。「やはり」と言う孤独なつぶやきはまた、ついに夢を果たせない私たちのつぶやきでもある。深刻になりがちな世界を、さらりと言い捨てた軽妙さもなかなかのものだ。地味だが、とても味わい深い。再来年21世紀の初頭は「巳年」である。大いなる「穴惑ひ」の世紀になるような気がする。そのときには、誰かがきっとこの句を思い出すだろう。『ぼんやりと』(1998)所収。(清水哲男)




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