溝上瑛『マスコミ解剖』(解放出版社)。大阪朝日を定年退職した友人の本。現場の強さ。




1999ソスN11ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 18111999

 焼芋の固きをつつく火箸かな

                           室生犀星

芋といっても、いろいろな焼き方がある。焚き火で焼いたり、網やフライパンで焼いたり、石焼芋もあるし、近年では電子レンジでチンしたりもする。もっとも、電子レンジで調理する場合は「焼く」という言葉は不適当だ。といって「蒸かす」も適当でないし、やはり「チンする」とでも言うしかないか(笑)。句の場合は、囲炉裏で焼いている。犀星の時代にはごく普通の焼き方であり、焼け具合を見るために、火箸でつついている図だ。短気だったのだろう。焼けるのが待ち切れなくて「固きをつつ」いているわけだが、一人で焼いているのならばともかく、こうした振る舞いは周囲の人に嫌われたと思う。芋だけではなく、ついでに囲炉裏の火までつつきまわす人もおり、貧乏性の烙印を捺されたりもした。もちろん犀星は自分の行為に風流を感じて作ったのだろうが、あまり褒められた姿ではない。……と、百姓の子としては言っておきたくなる。囲炉裏での火箸の扱いは、ゆったりとした心持ちのなかで、はじめて(風流)味が出てくる。犀星は百姓のプロじゃなかったから仕方がないけれど、火箸の上げ下ろしは、あれでなかなか難しいのである。そう簡単に、カッコよくはできないものなのだ。(清水哲男)


November 17111999

 寒夜哉煮売の鍋の火のきほひ

                           含 粘

い出しては、柴田宵曲の『古句を観る』(岩波文庫・緑106-1)を拾い読みする。元禄期の無名作家の俳句ばかりを集めて解説した本だ。解説も面白いが、当時の風俗を知る上でも貴重な一本である。この句は、秋の部の最後に紹介されている。「煮売」は、魚や野菜を煮ながら売る商売で、作者は煮られているものよりも、煮ている火の勢いに見入っている。薪の炎だろう。寒い夜の人の心の動きが、よくつかまえられている。電灯などない時代だから、よけいに炎の色は鮮やかだったろうが、現代人にも通じる世界だ。宵曲は上五字の「寒夜哉」に注目して、こう書いている。「『寒夜哉』という風な言葉を上五字に置く句法は、俳句において非常に珍しいというほどでもないが、下五字に置いたのよりは遥に例が少い。それだけ用いにくいということにもなるが、詠歎的な気持は下五字を『かな』で結ぶよりも強く現れるような気がする。この句は『火のきほひ』の一語によって、上の『寒夜哉』を引締めているようである」。そこで私は、いろいろと「寒夜哉」の位置を替えて遊んでみた。やっぱり、上五字にもってくるのが、いちばん納まりがよいようである。(清水哲男)


November 16111999

 隣席を一切無視し毛糸編む

                           右城暮石

者は、明らかに「むっ」としている。「隣席」というのだから、電車のなかだろう。たまたま坐った隣席の女性が、一心に毛糸を編んでいる。一心はよろしいが、電車が揺れるたびに、編み棒やら毛糸玉やらがこちらの領域を侵蝕してくる。気になって仕方がない。明治生れ(明治32年)の作者の気持ちを現代語に翻訳しておけば、「チョーむかつく」というところか。最近はあまり見かけないけれど、昔は電車のなかでの編み物は珍しくなかった。隣り合わせてしまったら、あれは災難としか言いようがない。しかも私は尖端恐怖症気味だったので、隣席の編み棒は辛かった。「むかつく」けど文句も言えず、辛すぎるときには立って別の車両に移ったこともある。冬の季語としての「毛糸編む」。たいていの句が微笑を伴った作りになっているのに、暮石はとても不機嫌である。この不機嫌が、読者にはどこかユーモラスにも響くところに味がある。いま思い出したが、二十年ほど前、ラジオをはじめたころのスタジオでの相棒が、毛糸を編みながら放送しはじめたのにはたまげた。しかも、生放送。聞いている人は、彼女が編み棒を操りながら喋っているとは知らなかったろうが、目の前の私としては、素朴に「ああ女は強し」と思いましたね。『右城暮石「天狼」発表全句』(1999)所収。(清水哲男)




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