自民が2002年1月にデノミ実施を検討(東京新聞)。100円を1円に。便乗値上げは必至。




1999ソスN11ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 19111999

 芒野やモデルハウスに猫の声

                           守屋明俊

を探していたころ、よくモデルハウスを見に出かけた。新聞広告などをたよりに行ってみると、句のようにまことに殺風景な場所に建っている。にわかづくりの芝居小屋か映画のセットのようだ。一歩なかに入ると、ピカピカの流し台やら豪華な応接セットやらがしつらえられていて、いったい何様のお住まいかと思ったものだ。安い買い物ではないので、もちろん慎重にあちこちを見る。豪華な応接セットの代わりに、我が家の貧弱なそれを置いてみたとイメージしてみたりもした。しかし、なかなか決断するにはいたらない。何箇所かを見て回っているうちに気がついたことだが、モデルルームが決め手に欠けるのは、そこに人の住んでいる気配がないことだった。当たり前だけれど、生き物の気配のない住居は、いくら住居らしくデザインされていても空虚なものだ。おそらく作者も、そんな気がしていたのだろう。が、そこにどこからか小さく猫の鳴き声が聞こえてきた。なんだかホッとしたような気持ち……。現代的な生活者の感覚を、さりげないが鋭くとらえた佳句と言えよう。ただし、この句。作者が外にいて、中から猫の声がしたとも受け取れる。それなりに面白いが、モデルルームに猫が入り込むのは無理だろう。「俳句界」(1998年12月号)所載。(清水哲男)


November 18111999

 焼芋の固きをつつく火箸かな

                           室生犀星

芋といっても、いろいろな焼き方がある。焚き火で焼いたり、網やフライパンで焼いたり、石焼芋もあるし、近年では電子レンジでチンしたりもする。もっとも、電子レンジで調理する場合は「焼く」という言葉は不適当だ。といって「蒸かす」も適当でないし、やはり「チンする」とでも言うしかないか(笑)。句の場合は、囲炉裏で焼いている。犀星の時代にはごく普通の焼き方であり、焼け具合を見るために、火箸でつついている図だ。短気だったのだろう。焼けるのが待ち切れなくて「固きをつつ」いているわけだが、一人で焼いているのならばともかく、こうした振る舞いは周囲の人に嫌われたと思う。芋だけではなく、ついでに囲炉裏の火までつつきまわす人もおり、貧乏性の烙印を捺されたりもした。もちろん犀星は自分の行為に風流を感じて作ったのだろうが、あまり褒められた姿ではない。……と、百姓の子としては言っておきたくなる。囲炉裏での火箸の扱いは、ゆったりとした心持ちのなかで、はじめて(風流)味が出てくる。犀星は百姓のプロじゃなかったから仕方がないけれど、火箸の上げ下ろしは、あれでなかなか難しいのである。そう簡単に、カッコよくはできないものなのだ。(清水哲男)


November 17111999

 寒夜哉煮売の鍋の火のきほひ

                           含 粘

い出しては、柴田宵曲の『古句を観る』(岩波文庫・緑106-1)を拾い読みする。元禄期の無名作家の俳句ばかりを集めて解説した本だ。解説も面白いが、当時の風俗を知る上でも貴重な一本である。この句は、秋の部の最後に紹介されている。「煮売」は、魚や野菜を煮ながら売る商売で、作者は煮られているものよりも、煮ている火の勢いに見入っている。薪の炎だろう。寒い夜の人の心の動きが、よくつかまえられている。電灯などない時代だから、よけいに炎の色は鮮やかだったろうが、現代人にも通じる世界だ。宵曲は上五字の「寒夜哉」に注目して、こう書いている。「『寒夜哉』という風な言葉を上五字に置く句法は、俳句において非常に珍しいというほどでもないが、下五字に置いたのよりは遥に例が少い。それだけ用いにくいということにもなるが、詠歎的な気持は下五字を『かな』で結ぶよりも強く現れるような気がする。この句は『火のきほひ』の一語によって、上の『寒夜哉』を引締めているようである」。そこで私は、いろいろと「寒夜哉」の位置を替えて遊んでみた。やっぱり、上五字にもってくるのが、いちばん納まりがよいようである。(清水哲男)




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