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1999ソスN11ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 22111999

 舎利舎利と枯草を行く女かな

                           永田耕衣

景かもしれない。枯草原を女が歩いている。和服の裾が枯草に触れて、そのたびにかすかな音がする。しゃりしゃり、と。それを作者は「舎利舎利」と聞きなしているわけだが、若い読者には駄洒落としか思えないだろう。しかし、七十代も後半の作者は大真面目だ。この場合の「舎利」は火葬の後の骨のこと。晩年にさしかかったという自覚のある耕衣には、しごく素直にそう聞こえたのである。このとき女は幽霊のようであり、自分をあの世に誘う使者のようでもある。といって、暗い句ではない。むしろ、死を従容として受け入れようとする心が描いた「清澄な世界」とでも言うべきか。明晰なイリュージョン。私ももう少し歳を重ねることになったら、かくのごとき境地にあやかりたいものだ。ところで、幽霊とお化けとはどう違うのか。簡単に言うと、幽霊は「人」につき、お化けは「場所」につく。柳の下に出る幽霊は「場所」についているようだが、実は違う。あれは、誰にも見えるわけじゃない。とりつかれた人にだけしか見えないのだから、どうかご安心を(笑)。そろそろ柳の散る季節。寒がりの幽霊は、もう出なくなる。『殺佛』(1978)所収。(清水哲男)


November 21111999

 少年は今もピッチャー黄葉散る

                           大串 章

新作。先週の日曜日(11月14日)に、京都は宇治で作られた句だ。宇治句会の折りに学生時代の下宿先を訪ね、近所の小公園でキャッチボールをする父子を見かけて作ったのだという(私信より)。「今も」が利いている。つまり、いつの時代にも、父子のキャッチボールでは「少年」がピッチャー役となる。逆のケースは、見たことがない。父親がピッチャーだと、強いボールをキャッチできないという子どもの非力のせいもあるが、もう一つには、野球ではやはりピッチャーが主役ということがある。子どもを主役にタテて、父親が遊んでやっているというわけだ。この関係には、日頃遊んでやれない父親としての罪滅ぼしの面も、少しは心理的にあるのかもしれない。休日の父子のキャッチボールでは、とにかく全国的に、この関係が連綿としてつづいてきている。作者は、そのことに心を惹かれている。似た光景を、これまでに何度見てきたことか。その感慨が「黄葉散る」にこめられている。野球好きでないと、このさりげないシーンをこのように拾い上げることはできない。若き日の職場野球での大串章は「キャッチャー」だったと聞いたことがある。(清水哲男)


November 20111999

 木枯しや小学生の立ち話

                           藤堂洗火

ろそろ夕暮れに近いころの情景だろう。下校途中の小学生が、強い北風に吹かれながら立ち話をしている。通りかかった作者は「こんなに寒いのに、わざわざ立ち止まって何の話をしているのだろう」と一瞬訝りながら、傍らを通り過ぎた。ただそれだけのことなのだが、巧みなスケッチ句だ。「子どもは風の子、元気な子」と言うが、そんなふうに作者はとらえていない。むしろ寒さを我慢しながら熱心に話している様子が印象的だったからこそ、こういう句に仕上がったのだと思う。そういえば子どもだったころ、たいした話でもないのに、寒くてもよく立ち話をしたっけな。そんな大人の郷愁を誘うようなシーンでもある。ところで、立ち話をしているのは男の子だろうか、それとも女の子だろうか。私には、なんとなく髪の毛を押さえながら話している女の子同士の感じがする。「そりゃ女の子に決まってるよ。なんてったって、主婦の予備軍だもの」。誰ですか、そんな失礼なことを、今つぶやいたのは……。(清水哲男)




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