November 261999
ロボットと話している児日短か
八木三日女
戦後「前衛俳句」運動のトップランナーであった三日女(「満開の森の陰部の鰓呼吸」「赤い地図なお鮮血の絹を裂く」など)の近作だ(1995)。一読、ほほえましいような光景ではあるが、具体的に場面を想像してみる(たとえば「鉄腕アトム」と話している子供)と、不気味な句に思えてくる。アトムとまではいかないが、最近では人語に反応するロボット玩具が開発されており、句の場景も絵空事ではなくなってきた。不気味というのは、感情を持たない話し相手に感情移入できているという錯覚のそれである。ロボットと話すことで癒される心のありようは、不気味だとしか言いようがない。原理的に考えれば、ロボットに言語を埋め込むのは所有者であるから、ロボットとの対話は自身の一部との会話に他ならず、それもいちいち音声化する必要のない部分との対話である。対話型のロボットは、所有者に都合のよい「甘えの構造」の外在化でしかないだろう。そしてこのとき「日短か(「ひぃみじか」と関西弁で発音してください)」というのは、人類の冬の季節における「短日」の意味に受け取れる。世紀末にふさわしい一句と言うべきだ。(清水哲男)
January 282006
アノラックあばよみんないってしまったさ
八木三日女
季語は「アノラック」で冬、「ジャケツ」に分類。と言っても、「アノラック」を季語として扱っている歳時記はないだろう。が、フードのついた防寒用ウェアのことだから、無季とするのも変なので、当歳時記としてはこのようにしておく。掲句のアノラックは、青春の象徴として詠まれている。みんなでスキーやスケートに行ったり、あるいは他の楽しみのためにも、いつも着ていったアノラック。大事にとっておいたのだけれど、もう二度と着ることもなさそうだ。なぜなら、もはやいっしょに着ていく「みんな」は「いってしまった」からである。「いって」は「行って」でもあり「逝って」でもあるだろう。そこで作者はわざと「あばよ」などと明るく乱暴に、そのアノラックを処分してしまおうと思い決めたにちがいない。過ぎ去った青春への挽歌として、出色の一句だ。「みんないってしまったさ」の「さ」に、万感の思いが込められている。ところで、かつての世界的なアノラック流行の起源には諸説ある。嘘か本当かは別にして、私が気に入っているのは、その昔のイギリスでトレインスポッティング(汽車オタク)が、寒いなかで着用したところから広まったという説だ。となると、アノラックには人間の一途の思いが込められているわけで、このときに掲句の寂しさはいっそう身にしみてくる。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)
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