積雪のなかでクリスマス市がにぎわっていると、ドイツからのメール。行きたくなった。




1999ソスN11ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 29111999

 狐火を伝へ北越雪譜かな

                           阿波野青畝

火とも呼ばれる「狐火」の正体は、よくわかっていない。冬の夜、遠くに見える原因不明の光のことだ。たぶん死んだ獣の骨が発する燐光の類だろうが、それを昔の人は狐の仕業だとした。よくわからない現象は、とりあえず狐の妖術のせいにして納得していたというわけだ。目撃談はいろいろとあり、なかでも鈴木牧之『北越雪譜』(天保年間の刊行)のそれはリアルなので、今日の辞書の定義には、眉に唾をつけた恰好ながら多く採用されている。「我が目前に視しは、ある夜深更の頃、例の二階の窓の隙に火のうつるを怪しみ、その隙間より覗きみれば孤雪の掘場の上に在りて口より火をいだす。よくみれば呼息(つくいき)の燃ゆるなり。(中略)おもしろければしばらくのぞきゐたりしが、火をいだす時といださゞる時あり。かれが肚中の気に応ずるならん」。口から火を吐いていたのを確かに見たというのであるが、これも理屈をつければ、狐が獣骨を銜えていたのではないかと推察される。いずれにせよ、狐火が見える条件には漆黒の闇が必要だ。句は、牧之の時代の真の闇の深さを思っている。『不勝簪』(1974-1978)所収。(清水哲男)


November 28111999

 穹に出入りす白鳥の股関節

                           宇多喜代子

者は現代の人だが、「白鳥」を「くぐい」と読ませている。「くぐい(鵠)」は白鳥の古称、ないしは雅語である。「穹」は「おおぞら」だろう。つまり、上五七で句の雰囲気を太古に設定することにより、悠久の時間性を伝えようとしている。そして、下五でいきなり「股関節」という現代語を登場させて、太古と今とをはっしと結びつけた。おおよそ、そのような演出かと思われる。ここで読者は、水面にあるときは隠されている白鳥の「股関節」に思いが至る。思いが至ると同時に、再び上五に視線が戻る。もう一度、句を読み直す。そして、白鳥のいわば「隠し所」が、大空に飛翔するときは、常に露わになっていることにあらためて気がつくのである。それは太古の昔からであり、現在でも同じことである。しかし、飛翔する白鳥にはもとより、ひとかけらの羞恥の心もないであろう。この無垢の世界。「股関節」というナマな言葉を繰り出して、逆に白鳥の清澄性を際立たせている腕の冴え。小賢しく読めば、一種の人間批判の世界でもあるけれど、私としてはこのままの姿で受け止めておきたい。白鳥を見るたびに、この句を思い出すだろう。『半島』(1988)所収。(清水哲男)


November 27111999

 鞄あけ物探がす人冬木中

                           高浜虚子

が落ちた冬の木立。少し遠くの方で、鞄をあけて一心に何かを探している人の姿が透かし見えている。見ず知らずの他人でも、物を探しているところを見かけると、こちらまで落ち着かない気分になる。あれは、なぜだろうか。実に不思議な気分だ。地面に落ちた物を探しているのなら一緒に探すこともできるが、鞄の中ではそうもいかない。この寒空の下、立ち止まって探す必要があるのだから、よほど大切な物なのだろう。これから仕事先に届ける書類かもしれないし、貯金通帳や印鑑の類かもしれない。作者は気になりつつ、その場を通りすぎていく。なんでもない句のようだけれど、さすがに虚子のスケッチは巧みだ。冬木中に鞄をあけている男の姿。この切り取りで、ぴしゃりと絵になっている。ただし、これがいまどきに作られた句だと、探し物は「携帯電話」くらいだろうと想像されるので、そんなに面白みはなくなってしまう。何を探しているのか皆目見当がつかないところに、寒い季節の味わいも出ているのである。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)




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