November 301999
あたゝかき十一月もすみにけり
中村草田男
昔から、この句が好きだ。なんということもないのだけれど、心がやすまる。実際に今年の十一月も暖かかったが、そういう事実を越えて、何か懐かしい響きを伝えてくれる句だ。意図的に使われている平仮名の、心理的な効果によるものだろう。字面は詠嘆的なのだが、詠嘆がまといがちな大袈裟な身振りを、やわらかい平仮名がくるんでしまっている。ほど良い酔い心地。そんな感じもする。そしてちょっびりと、同時に明日からの「酔いざめの師走」が暗示されていて、そこがまた読む者の琴線に微妙に触れてくるのだ。山本健吉が「腸詰俳句」と言った草田男独特の句境にはほど遠いところに位置する作品だが、草田男のもう一つの魅力が存分に発揮されている句だと思う。草田男は虚子門。やはり「ホトトギス」の子なのであった。(清水哲男)
November 291999
狐火を伝へ北越雪譜かな
阿波野青畝
鬼火とも呼ばれる「狐火」の正体は、よくわかっていない。冬の夜、遠くに見える原因不明の光のことだ。たぶん死んだ獣の骨が発する燐光の類だろうが、それを昔の人は狐の仕業だとした。よくわからない現象は、とりあえず狐の妖術のせいにして納得していたというわけだ。目撃談はいろいろとあり、なかでも鈴木牧之『北越雪譜』(天保年間の刊行)のそれはリアルなので、今日の辞書の定義には、眉に唾をつけた恰好ながら多く採用されている。「我が目前に視しは、ある夜深更の頃、例の二階の窓の隙に火のうつるを怪しみ、その隙間より覗きみれば孤雪の掘場の上に在りて口より火をいだす。よくみれば呼息(つくいき)の燃ゆるなり。(中略)おもしろければしばらくのぞきゐたりしが、火をいだす時といださゞる時あり。かれが肚中の気に応ずるならん」。口から火を吐いていたのを確かに見たというのであるが、これも理屈をつければ、狐が獣骨を銜えていたのではないかと推察される。いずれにせよ、狐火が見える条件には漆黒の闇が必要だ。句は、牧之の時代の真の闇の深さを思っている。『不勝簪』(1974-1978)所収。(清水哲男)
November 281999
穹に出入りす白鳥の股関節
宇多喜代子
作者は現代の人だが、「白鳥」を「くぐい」と読ませている。「くぐい(鵠)」は白鳥の古称、ないしは雅語である。「穹」は「おおぞら」だろう。つまり、上五七で句の雰囲気を太古に設定することにより、悠久の時間性を伝えようとしている。そして、下五でいきなり「股関節」という現代語を登場させて、太古と今とをはっしと結びつけた。おおよそ、そのような演出かと思われる。ここで読者は、水面にあるときは隠されている白鳥の「股関節」に思いが至る。思いが至ると同時に、再び上五に視線が戻る。もう一度、句を読み直す。そして、白鳥のいわば「隠し所」が、大空に飛翔するときは、常に露わになっていることにあらためて気がつくのである。それは太古の昔からであり、現在でも同じことである。しかし、飛翔する白鳥にはもとより、ひとかけらの羞恥の心もないであろう。この無垢の世界。「股関節」というナマな言葉を繰り出して、逆に白鳥の清澄性を際立たせている腕の冴え。小賢しく読めば、一種の人間批判の世界でもあるけれど、私としてはこのままの姿で受け止めておきたい。白鳥を見るたびに、この句を思い出すだろう。『半島』(1988)所収。(清水哲男)
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