December 021999
ポインセチア愛の一語の虚実かな
角川源義
花言葉は、19世紀のイギリスで決められたものがベースになっている。各種あって特定しがたいが、手元の資料によれば、ポインセチアのそれは「祝福する」とあった。いかにも、この花の華麗さにふさわしい(もっとも、華麗なのは花ではなくて葉のほうだけど)。祝福の対象は恋愛などの「愛」よりも、人類愛などのそれだろう。恋愛というときの「愛の一語」にも虚実はあるが、人類愛の場合には、もっと虚実の濃淡がいちじるしい。「私は人類は大いに愛するが、隣りのババアだけはどうにも気にくわない」と正直に言ったのは、たしか文豪トルストイである。この季節になると、花屋の店先を占領するほどに出回るポインセチア。クリスマス向けというわけだが、その華麗さを買い求める人々の「愛」への思いと、その「虚実」や如何に。苦い一句だ。なお、ポインセチアの命名は、発見者であるポインセットに由来しているそうだ。人の名前なのである。ご存知でしたか。(清水哲男)
January 272005
吸殻に火の残りをる枯野かな
山口珠央
季語は「枯野」で冬。誰が捨てたのか、煙草の吸殻が落ちている。気になったので立ち止まってよく見ると、まだかすかに火がついたままだ。うっすらと煙も立ち上っている。あたりは一面の「枯野」原だ。危ないではないか、火事になったらどうするのだ。捨てるのならば、消えたかどうかをきちんと確認してほしいものだ。……といったような、心ない煙草のポイ捨てにいきどおっている句では、実はないだろう。作者が意図したのはおそらく、眼前に広がる枯野がどのような枯野なのかを、描写的にではなく実感的に提示したかったのだと読む。だから実際にそこに吸殻は落ちていなかったのかもしれないし、落ちていたとしても完全に火は消えていたのかもしれない。いずれにしてもそこに火の消えていない吸殻を置くことによって、見えてくるのはいかにも乾いていてよく燃えそうな枯れ木や枯れ草、枯れ葉の一群であり、それらが延々と広がっている情景だ。いかに描写を尽くそうとも伝わらないであろう実感的な情景を、小さな吸殻に残ったちいさな火一つで伝え得た作者のセンスはなかなかのものだと思う。作者の句としては、他に「トラックやポインセチアを満載に」「古物屋や路地にせり出す炬燵板」などがある。いままで知らなかった名前の人だが、こういう才能を見つけると嬉しくなってくる。煙草が美味い。「俳句」(2005年2月号・「17字の冒険者」欄)所載。(清水哲男)
January 162014
孫を抱く孫は猫抱く炬燵かな
柳沼新次
いいなぁ。おじいちゃんの膝にすっぽりはまる孫の暖かさ、孫の腕の中で眠る猫はすやすや。団子のように身を寄せ合ってあったまるのが冬の楽しみ。マンション暮らしの床暖房で長らく炬燵と無縁の生活をしている私などは、ほのぼのとした炬燵の風景に憧れてしまう。炬燵の上にはミカンがあって、孫のぬくもり猫のぬくもりが心地いい。掲句が収録されている句集の多くは介護度5の妻を支える日常を静かな心で受け止め詠んだ句が多い。「三十歩歩けた妻にポインセチア」「羽布団横掛けにして二人して」それと同時に老年を来て小春日和のようなひとときがある喜びをこれらの句から感じることが出来る。『無事』(2013)所収。(三宅やよい)
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