December 041999
暗さもジャズも映画によく似ショールとる
星野立子
戦前の句。作者が入ったのは、クラシック・スタイルのバーだろう。ほの暗い店内には静かにジャズが流れており、心地よい暖かさだ。大人の店という雰囲気。まるで映画の一場面に参加しているような気分で、作者はショールをとるのである。その手つきも、いささか芝居がかっていたと思われるが、そこがまた楽しいのだ。ショールというのだから、もちろん和装である。和装の麗人と洋装の紳士との粋な会話が、これからはじまるのだ。こうした店には、腹に溜まるような食べ物はない。間違っても、焼きおにぎりやスパゲッティなんぞは出てこない。あくまでも、静かに酒と会話を楽しむ場所なのである。いつの頃からか、このような店は探すのに苦労するほど減ってしまった。あることはあるけれど、めちゃくちゃに高いのが難である。強いて言うならば、現在の高級ホテルのバーと似ていなくもない。が、やはり違う。ホテルの店では、バーテンダーのハートが伝わってこないからだ。その意味からしても、最近の夜の遊び場はずいぶんと子供っぽくなってきている。だから、社会全体も幼稚で大人になれないのだ。遊び場は重要だ。遊び場もまた、人を育て社会を育てる。『続立子句集第二』(1947)所収。(清水哲男)
January 262005
わが肩に霞網めく黒ショール
梶川みのり
季 語は「ショール」で冬。最近のこの国でショール(肩掛け)といえば、なんといっても成人式での和装女性のそれが目に浮かぶ。申し合わせたように誰もが白いショールを羽織っているけれど、なかなかサマになる人はいないようだ。和装のついでに肩に無理矢理乗っけているといった感じ……。むしろ無いほうがすっきりするのにと、他人事ながら気がもめることである。ま、和装それ自体に慣れていないのだから、無理もないのだろうが。ところで、掲句のショールは洋装用だろう。写真は某社の商品カタログから抜いてきたものだが、「霞網(かすみあみ)めく」というのだから、たとえばこんなアクセサリー風の感じかしらん。たまに見かけることがある。おそらく作者は普段からすっと着こなしていて、しかしあるときいつものように肩に掛けると、なんだかふっと霞網にでもかかったような気持ちになったと言うのだ。ショールが霞網に感じられたということは、纏った作者自身はからめとられた不幸な小鳥ということになる。むろんそこまで大袈裟な感覚的事態ではないのだが、そうした想いが兆す作者の心の奥底に、私は自愛と自恃のきらめきを感じる。そのきらめきが、黒いショールを透かしてちらりちらりと見え隠れしているところに、この句の魅力があるのだと思った。『転校生』(2004)所収。(清水哲男)
November 302007
真白なショールの上に大きな手
今井つる女
ショールは女のもの。大きな手は男のもの。二つの「もの」には当然のように性別が意図され規定される。ショールの上に手が置かれる間柄を思うと、この男女は夫婦、または恋人同士。ショールは和装用だから男もまた和装であってよい。「もの」しか書かれていないのに、その組み合わせはつぎつぎとドラマの典型を読者に連想させる。上原謙と原節子、佐田啓二と久我美子、はたまた鶴田浩二と岸恵子。こんな組み合わせのカップルだろうか。オダギリジョーとえびちゃんではこうはならない。つまりこのドラマには、恋愛や夫婦の在り方や倫理観や風俗習慣など、明治三十年生まれの「女流」から見たコンテンポラリーな風景と意識が明解に映し出されている。時代に拠って変化するものは、後年みると古臭く見える。それは当たり前だろう。だからといって草木や神社仏閣の情緒に不変のものを求めるのは現在ただ今の自己への執着を放棄することにならないか。現在ただ今の、流動しかたちを定めない万相の中にこそ時代の真実があり、自己の生があり、その一瞬から永遠が垣間見える。「写生」とはそういう特性をもつ方法である。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)
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