陰暦カレンダーを探すも発見できず。2月30日の年もある旧暦は面白い。其角の命日がこの日。




1999ソスN12ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 10121999

 障子貼つて中仙道と紙一重

                           泉田秋硯

語は「障子(しょうじ)貼る」で秋。冬に備えて障子を張り替えた習慣から。「障子」だけなら冬季。「中仙道(中山道)」は、五街道の一つ。江戸日本橋を起点に信濃・美濃などを経て草津で東海道と合流し、京都に至る。作者は関西の人だから、草津あたりの光景だろうか。句のウィットが、なんとも楽しい。ぴしっと貼られた障子の外はというと、数々のドラマの舞台ともなってきた天下の中仙道である。そう思うだけで、心がざわめくような気がする。その気持ちを「紙一重」で表現した巧みさ。舌を巻くテクニックだ。俳句は簡単に作れる。十七音節に季語一個を用意して、俳句らしい気分、という気合いを「えい」とかけると一句になる。阿部完市は、この作り方を「俳句からくり機械」を使っていると揶揄しているが、この句はとても「からくり機械」ではできないだろう。もう一句。「溢れても柚子悉く湯にのこる」。冬至の柚子湯である。これまた、機械ではできない句だ。『薔薇の緊張』(1993)所収。(清水哲男)


December 09121999

 河豚汁のわれ生きている寝ざめ哉

                           与謝蕪村

豚汁(ふぐじる)は、河豚の身を入れた味噌汁。江戸期の河豚料理は、ほとんどこれだったという。ただし、中毒を起こして死ぬ者が多かったので禁制(解禁は明治期)。肝臓、卵巣、胃、腸などに毒あり。それでも美味の誘惑には抗しきれず、ひそかに食べ続けられた。どれだけの人が、命を落としたことか。蕪村も、かくのごとくにヒヤリとしている。もっとも蕪村はフィクションの名人だったので、実際に食したのかどうかはわからない。でも、当時河豚を食べた人の気持ちは、みなこのようであったろう。現代でも、ときどき新聞に河豚中毒の記事が載る。戦後になって河豚で死んだ最大の有名人は、歌舞伎俳優の坂東三津五郎(八代目)だろう(1975年1月16日)。口がしびれるような部分が好きだったという記事を、なんとなく覚えている。ところで、河豚の王様はトラフグ。天然物は市場で1キロ当たり二万五千円から三万円もしているようだ。とても、庶民の口には入らない。本場の下関の友人が「このごろは高うていけん」と、こぼしていた。「大衆向け料理屋で使われるのは、ショウサイフグ、マフグ、シマフグ」だと、新聞で読んだ。(清水哲男)


December 08121999

 焼鳥焼酎露西亜文学に育まる

                           瀧 春一

しくとも楽しかった青春回顧の一句である。この育(はぐく)まれ方は、しかし作者に固有のそれではない。安酒場で焼酎をあおり、熱っぽくドストエフスキーなどを語り合う。戦後まもなくの大学生たちの生活の一齣(こま)だ。焼鳥と焼酎と露西亜文学は、彼らの青春のいわば三点セットなのであった。だから、このように句にしても、違和感なく受け止めてくれる土壌はあるというわけだ。世代的には、昭和一桁生まれの人たち。昭和二桁初期の私は、わずかながら雰囲気だけは嗅いだことがある。私の頃には露西亜文学が後退しはじめており、カミュやらサルトルやらと仏蘭西文学に注目が集まりかけていた。いずれにしても、文学から生きる意味を学ぼうとする時代があったということだ。いまや、酒場や喫茶店で文学を語る若者など皆無に近い。フランスでもサルトルなどは読まれなくなったそうだが、人生における文学の価値は確実に下落したということだろう。本ばかり読んで、あまりにブッキッシュに物事を捉えるのも考えものではあるが、せっかくの文学者の労作を知らないまま死んでしまうのも寂しすぎる。現代の青春に三点セットがあるとすれば、それは何であろうか。(清水哲男)




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