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December 16121999

 縄綯ひの両手さしあぐ影法師も

                           木附沢麦青

の農家では、長い冬の期間中に藁(わら)仕事に励んだ。「縄綯い(なわない)」も、俵編みや草履編みなどとともに大切な仕事だった。句は、日当たりのよい庭先での光景だろう。綯っているうちに肩がこってきたので、両手を宙に差し上げた瞬間のスナップである。なべて藁仕事は単調に見え、慣れでこなしているかに見えるけれど、あれで案外神経を使う仕事なのだ。気を抜くと、すぐに製品がヤワになってしまう。だから、身体力学的な理由だけからではなく、ひどく肩がこる。女性の毛糸編みにも通ずる話であるが、いかなベテランといえども、慣れによる労力の節約度はタカがしれているのであって、どうしても神経的に肩がこってしまうのだ。そんな農民の背伸びの場面で、影法師を道づれにした発想は面白い。暢気(のんき)なように見えて、当人はちっとも暢気ではない。肩凝りも、いつもの二倍というわけか。同時に、句は縄綯うという一人仕事の寂しさをも告げている。影法師がくっきりとしているだけに、余計に「ひとりぼっち」の臨場感が際立って写る。(清水哲男)


January 2012014

 遠き日の藁打つ音に目覚めけり

                           大串 章

の間の農家では、藁仕事が欠かせなかった。俵、草履、縄、筵などの一年を通じて日常的に必要なものをこしらえておく。子供でも、縄や草履くらいは自前で作ったものだった。そんな作業をはじめる前に、必ずやったのが「藁打ち」だ。適当な分量の藁束を、小さな木槌でていねいに叩いてゆく。素材の藁を作業しやすいようにしなやかな状態にしておくためだ。そんな藁を打つ音も、いまではまったく聞かれなくなったが、昔はそこらじゅうから聞こえてきたものである。句の作者は、何かの物音で目覚めたのだが、どういうわけか一瞬にしてそれが藁を打つ音だと納得している。現実的にそんなことはあり得ないのに、夢うつつの世界では、こういうことはよく起きる。そしてこのときに、作者は「遠き日の」自分自身に同化している。まったき少年と化している。人生は夢のごとしと素直に感じられるのも、またこういうときだろう。「俳句」(2014年1月号)所載。(清水哲男)




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