「SNOOPY」のC.M.Schulz氏が2000年早々の引退を宣言。最後の画面はどうなるのかなぁ。




1999ソスN12ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 16121999

 縄綯ひの両手さしあぐ影法師も

                           木附沢麦青

の農家では、長い冬の期間中に藁(わら)仕事に励んだ。「縄綯い(なわない)」も、俵編みや草履編みなどとともに大切な仕事だった。句は、日当たりのよい庭先での光景だろう。綯っているうちに肩がこってきたので、両手を宙に差し上げた瞬間のスナップである。なべて藁仕事は単調に見え、慣れでこなしているかに見えるけれど、あれで案外神経を使う仕事なのだ。気を抜くと、すぐに製品がヤワになってしまう。だから、身体力学的な理由だけからではなく、ひどく肩がこる。女性の毛糸編みにも通ずる話であるが、いかなベテランといえども、慣れによる労力の節約度はタカがしれているのであって、どうしても神経的に肩がこってしまうのだ。そんな農民の背伸びの場面で、影法師を道づれにした発想は面白い。暢気(のんき)なように見えて、当人はちっとも暢気ではない。肩凝りも、いつもの二倍というわけか。同時に、句は縄綯うという一人仕事の寂しさをも告げている。影法師がくっきりとしているだけに、余計に「ひとりぼっち」の臨場感が際立って写る。(清水哲男)


December 15121999

 山国に来て牡蠣の口かたしかたし

                           矢島渚男

のまま解釈すれば、海のものである牡蠣(かき)がはるばると山国にやって来て、いざ貝殻をこじ開けようとしても、固くてなかなか開かないということだ。そして、この事実の上に、作者は山国の人の口の重さを乗せている。俗に「牡蠣のように押し黙る」という。ちょっとした宴席ででもあろうか。旅人としての作者が、何を尋ねても、誰もが寡黙なのである。よそ者には山国の人間として対するのではなく、あたかも海の者のようにしか応対しないという構図。皮肉たっぷりの句だ。山国育ちだから、私にはこの応接ぶりがよくわかる。そのあたりを象徴しているのが、旅館の食事メニューだろう。どんなに草深い田舎の旅館に泊まっても、ちゃんと海のものである刺し身と海老フライなんかが出てくる。もとより新鮮ではありえないから、食べて美味いものではない。旅の身としては、よほど地元の川魚や山菜のほうが食べたいのに、そうは応接してくれないから厄介だ。「ご馳走」ではなくて「見栄」を食わされているのだと、いつも思ってしまう。作者は長野県丸子町の在。旅人としてではなく、地元への愛憎半ばした一句と読むこともできるが……。『天衣』(1987)所収。(清水哲男)


December 14121999

 枯草にキャラメルの箱河あわれ

                           金子兜太

岸の枯草のなかに、キャラメルの白茶けた空き箱が捨てられている。よく見かける光景だ。もっと暖かい時季に、どこかの子供が遊びに来て捨てていったのだろう。ここで作者は「ポイ捨て」はいけないなどと、公衆道徳的な反応はしていない。荒涼たる冬の河岸に、元気な子供の走り回る姿を二重写しにして、「あわれ」と言っている。「あわれ」は「哀れ」ではなく、何かいとおしいような感情がにじみ出てくる状態を指している言葉だ。すべてのゴミは、かつては人間とともにあった物である。したがって、この物とともに確かに人間がいたという「存在証明」なのである。だから、ゴミは単に穢い物体ではありえない。何年か前に、ドイツ領内を流れるエルベ川のほとりに立ったとき、ひどく河岸がきれいなことに違和感を覚えた。聞いてみると、河岸は立ち入り禁止なのだという。なるほど、キャラメルの箱一つ落ちていない理屈だ。まことにクリーンな光景というのも、案外と薄気味が悪いなと思ったことを覚えている。だから、かなり日本語のできるドイツ人が読んでも、句の「あわれ」はおそらく「哀れ」としか理解できないだろう。『金子兜太全句集』(1975)所収。(清水哲男)




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