早朝、缶ジュースを買う男あり。完璧な午前様。「おぬし、出来るな」。昔の私を思い出した。




1999ソスN12ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 19121999

 雪吊を見おろし山の木が立てり

                           大串 章

の重みで庭木などが折れないように、幹にそって支柱を立て、縄を八方にして枝を吊るのが「雪吊(ゆきつり)」。金沢・兼六園の雪吊は有名だ。果樹も「雪吊」で守るが、「山の木」からすれば過保護としか見えないだろう。句は、そうした良家の子女のような扱いを受けている樹木を、憮然として眺めている「山の木」を詠んでいる。作者には『山童記』という句集もあるくらいで、かつての「山の子」はこういうことには敏感なのだ。もとより、私もまた……。砕いて言っておけば、ここにあるのは都会者を見る田舎者のまなざしである。句にはさしたる皮肉もないだけに、それだけ切ない心情が伝わってくる。一見地味な姿の句であるが、私のような田舎育ちにはビビビッと来る句だ。ところで、東京で「雪吊」作業を体験してみたい方へのお知らせ。都立井の頭自然文化園(武蔵野市御殿山1-17-6・TEL0422-46-1100)では、12月25日(土)午前9時より園内で作業をするので、一般参加を呼びかけている。参加費、入園費は無料。定員20名。昼食持参のこと。希望者は電話してみてください。別に私は、井の頭公園のマワシモノではありませんよ(笑)。「山の子」の私としては、当然のことながら参加はしませんが。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)


December 18121999

 吾子逝けり消壷の炭灰を被て

                           柴田左田男

縁(ぎゃくえん)は痛ましい。子供に死なれた親の句の前では、ただ黙祷するしかない。なかでも、この句は子供の命と身体を、柔らかくもはかない消炭になぞらえていることで、忘れられない絶唱である。なぞらえる物ならば、他にいくらでもあるというのに、作者はあえて身近で地味な消炭を選んだのだ。それが、たとえば鶴や天馬に擬するよりも、短い間にもせよ、この家でともに暮らした思いをとどめるためであり、最良の供養だということである。作者の心中を察するにあまりあるが、この強じんなポエジーには作者の悲しみを越えて、人間存在に対する深い悲しみが感じられる。おのずから、涙がこぼれてきそうな名句だ。うろ覚えで恐縮だが、やはり子供に先だたれた親が刻したイギリスの墓碑銘に、こんなのがあった。「ちょっと部屋に入ってきて、キョロキョロ見回して、退屈だからさっさと出ていった」。明るいタッチだけに、余計に涙を誘われる名碑文だ。この冬も、インフルエンザ流行の兆し。悲しい親が、一人も生まれないですむことを切に祈ります。(清水哲男)


December 17121999

 遠火事や窓の拭き残しが浮いて

                           松永典子

防車のサイレンの音が聞こえてきた。火事である。どこだろうか。こういうときには、誰だって耳を澄ますのと同時に、サイレンの音のする方角を見る。その方角に窓がなければ、方角に近い窓を開けて首を伸ばしたりする。幸いにして火事は遠かったようだが、方角は作者の部屋の窓のそれと一致していた。遠火事にひとまず安堵したまではよかったのだけれど、今度は一瞬凝視した窓の汚れが目についてしまったという構図だ。火事さえなければ、気にならなかった汚れだったかもしれない。ちゃんと拭いたつもりが、拭き残されていた汚れ。火事のことなど忘れ去って、今度は窓の汚れに心を奪われている……。日常的な生活のなかでの感情と感覚のありどころは、このように次から次へと切り替わっていくのだということ。そのあたりの機微を、非常に巧みに捉えた句だと思う。昔の共同体ならば、半鐘がジャンと鳴っただけで、遠くでも近くでも心は火事に奪われた。だが、現代の心は、遠ければ、すぐに別の次元に心が飛んでしまう。作者に時代風刺のつもりはあるまいが、昔の人にはそう読まれるかもしれない。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)




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