ロベール・ブレッソンが亡くなった。手口がふんだんに出てきた『スリ』。もう一度見たい。




1999ソスN12ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 23121999

 思惟すでに失せ渺渺と額の雪

                           深谷雄大

者は北海道在住。「雪の雄大」と称されるほどに、雪に取材した句が多く、優れた句も多い。吹雪の道を行く感慨だ。猛烈な吹雪のなかを歩いていると、考えることなど何もできなくなり、ただひたすらに前進あるのみ。額(ぬか)にかかる雪も、渺渺(びょうびょう)と果てしない感じになってくる。これほどまでの吹雪の体験はないけれど、私が育った山陰地方の雪も昔はけっこう降ったので(学校が休みになることも度々だった)、多少とも雰囲気はわかる。一面の銀世界、というよりも灰色の世界を歩いていると、思惟(しい)などはたちまち蒸発してしまい、妙なことを言うようだが、やけに自分の身体だけが身近に感じられたものだ。吐く息の熱さが意識され、こらす目の不可視性が頼りなく意識される……。日ごろは抽象性を帯びている身体が、自然の働きのなかで、にわかに具体的に生々しいものとなるわけだ。その生々しさが、句では「額」に象徴されている。若き日の深谷雄大は、詩人でもあった。したがって、この句が収められている第一句集『裸天』(1968)は、詩書出版社の思潮社から刊行された。現在は『定本裸天』(1998)として、邑書林により文庫化されている。(清水哲男)


December 22121999

 立ちどまり顔を上げたる冬至かな

                           草間時彦

がラジオ局のスタジオは、西向きだ。毎年この季節になると、低く運行する太陽の光が、まともにさしこんできて眩しい。本日「冬至」は、北半球での太陽の高度がもっとも低くなるので、眩しさも最高となる。そんなふうに「冬至」を感じる人間もいるかと思えば、作者のように「もう日が暮れていくのか」と立ちどまって西の空を眺めやり、「そういえば……」と納得する人もいる。どうということもない所作ではあるが、時計にかかわらぬ時間認識の味とは、なべてこういうものだろう。この句をさして「飽きがこない」と言った人がいた。飽きがこないのは、この時間認識が、生きとし生けるもの本来のそれであるからだ。時計といえば、放送局には腕時計を嫌う人間が意外に多い。それでなくとも分秒に追いまくられる仕事なので、自分の腕にまでわざわざ分秒を表示したくはないということである。そういう立場から読むと、この句の抒情性はさらに胸の奥にまで染み入ってくるはずだ。それはそれとして、今日の東京地方の日出時刻は6時47分、日入は16時32分。野暮だったかな。月は真ん丸。『朝粥』(1978)所収。(清水哲男)


December 21121999

 山ごーごー不安な龍がうしろに居り

                           阿部完市

季ではあるが、「山ごーごー」は荒れる冬山に通じる。しかも「不安な龍」とくれば、ちょうど1999年の年末期にも通じる。二十年以上も前に作られた句だから、もちろん2000年問題が意識されていたわけではない。が、なんだか今日の事態を予言したような句に見えてきてしまう。その意味でも、怖い作品だ。明けて2000年。何が起きるのか、何も起こらないのか。誰にも予測はつきかねるが、一つ言えることは、この「不安」の種は人がみずから蒔いたものであるということだ。この事実だけは動かない。したがって「山」も「龍」も、その責を負うわけにはまいらない。「自己疎外」という懐しい哲学用語が、極めて具体的によみがえってきた世紀末。単なる数字の行列を横切るだけで、過去これほどまでに社会的な不安が際立ったことはない。人間もたいしたことはないなと、いまごろは「山」も「龍」もがあざ笑っていることだろう。関連で、同じ作者の句をもう一つ。「いま憂季とや雪雲と何十の歌謡」。こちらは大晦日恒例の番組「紅白歌合戦」に通じていると読める。2000年まで、あと11日。『春日朝歌』(1978)所収。(清水哲男)




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