December 271999
懐中手新年号をふところに
永井龍男
季語は「懐中手(懐手・ふところで)」。和服姿である。文学青年の野心が彷彿としてくる句だ。以下は、作者である小説家・永井龍男の回想である。「まことに独り合点な句だが、捨て難かった。昭和十年頃までの綜合雑誌『中央公論』『改造』、文芸雑誌の『新小説』『新潮』『文芸』の新年特別号は、創作欄に時の大家中堅の顔を揃え、時には清新な新進を加えて実にけんらんたるものがあった。自分も何年か後には、新年号の目次に名を連ねてと夢をいだいたのは、私という一文学青年ばかりではあるまい。そのような若い日の姿が、ある日よみがえってきた」。現代の若者の胸中には、もはやこのような野心のかたちは存在しないだろう。私が若かったころは、まだ匂いくらいは残っていた。それこそ「文芸」の編集者時代(1960年代)には、新年号の創作欄に綺羅星のように大家中堅の名前を載せるために、みんなして走り回ったものだった。雑誌の発売日にライバル誌の目次を見て、「勝った、負けた」と騒いだのも懐しい思い出である。したがって、必然的に二月号は新進特集などでお茶を濁すことになり(失礼)、製本が終わったところで正月休みとなるのだった。『文壇句会今昔・東門居句手帖』(1972)所収。(清水哲男)
November 272003
懐手かくて人の世に飛躍あり
軽部烏頭子
季語は「懐手(ふところで)」で冬。句の所載本に曰く。「和服の場合、袂の中や胸もとに両手を突つこむの言、手の冷えを防ぐ意味があるが、多くは無精者の所作として、あまりみてくれのよいものではないが、和服特有の季節感はある」。そうかなあ、文士などの写真によく懐手の姿があるが、子供のころから私は、いかにも大人(たいじん)風でカッコいいなと思ってきた。ズボンのポケットに手を入れているのとは大違いで、どこか思慮深さを感じさせるスタイルだなと。ま、しかし、それは人によるのであって、一般的にはこの解説のように見栄えがしなかったのだろう。ポケットに手をいれていても、たとえばジェームス・ディーンなどはよく似合ったように、である。懐手をして背を丸めて、作者はそこらへんを歩いている。すれ違う男たちもみな、いちように同じ恰好だ。なにか寒々しくもみじめな光景だが、このときにふと思ったことが句になった。そうか、みながこうして縮こまっているからこそ、「人の世」には次なる「飛躍」ということがあるのだ。いつも背筋をピンと這っていたのでは、ジャンプへの溜めがなくなるではないか。懐手こそ、飛ぶためのステップなのである。と、これは半分くらい自己弁護に通じる物言いだとけれど、そこがまた面白いと感じた。たしかに人の世には冬の時代もあり、その暗い時代が飛躍のバネになったこともある。こうした自己弁護は悪くない。さて、現代は春夏秋冬に例えれば、どんな季節なのだろうか。少なくとも、春や夏とは言えないだろう。やはり、懐手の季節に近いことは近いのだろうが……。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)
November 112004
金借りにきて懐手解かぬとは
ねじめ正也
季語は「懐手(ふところで)」で冬。和服の袂や胸元に手を入れていること。手の冷えを防ぐ意味もあるが、句の場合には腕組みの意味合いが濃いだろう。「金借りに」きたくせに、なにやら態度が尊大だ。人にものを頼むのであれば、せめて「懐手」くらい解いたらどうだと、作者は内心で怒っている。それが、相手は貸してくれて当たり前みたいな、のほほんとした顔をしている。失礼な奴だ。と、表面的には解釈できるし、それでよいのかもしれないが、もう少し突っ込んでみることもできそうだ。つまり、作者は金を借りる側の気苦労を思っている。たぶん相手は旧知の間柄だろうから、こちらに弱みを見せたくないのだ。素直に頭を下げるには、プライドが許さない。だから無理をして、すぐにでも簡単に返済できる感じをつくろうために懐手をしてみせている。「解かぬとは」、逆に辛いだろうな。というように相手の心中が手に取るようにわかるので、作者もまた辛いのである。借金とは妙なもので、返済できるメドがついている場合には、少々まとまった額でも気軽に申し込むことができる。反対にたとえ少額でも、アテがないと、なかなか借してくれとは言いにくい。こうした知己の間の金の貸し借りに伴う心理的負担を無くしたのが、街の金融機関だ。心理的な負担よりも、高利を選ぶ人が多いということである。『蝿取リボン』(1991)所収。(清水哲男)
January 162009
東山三十六峰懐手
西野文代
八文字の句である。句の表記について漢字にするか、ひらがなにするかはときどき迷うところ。例えば、桜と書くか、さくらと書くか。(もちろん櫻と書く選択もあろうが)ひらがなにするとやわらかい感じになる。あるいはさくらのはなびらの質感が出ると思われる方も居るかも知れない。一方で、桜と書くと一字であるために視覚的に締って見える。さくらは拡散。桜は凝固である。俳句は散文や散文的な短歌に対し凝固の詩であるとみることもできる。一個の塊りのような爆弾のような。この名詞をどうしてひらがなにしたのですかと尋ねると、あまり漢字が多くて一句がごつごつするのでと言われる作者もいる。僕なら凝固、凝集の効果の方をとる。この句、だんだん俯瞰してゆくと一行がやがて一個の点にみえてくるだろう。俳句表現が一個の●になるような表記。俳句性の極致。別冊俳句『平成俳句選集』(2007)所収。(今井 聖)
December 022015
懐手蹼(みづかき)ありといつてみよ
石原吉郎
吉郎は詩のほかに俳句も短歌も作り、『石原吉郎句集』と歌集『北鎌倉』(1978)がある。句集には155句が収められている。俳句はおもに句誌「雲」に発表された。ふところにしのばせているのが「蹼」のある手であるというのは、いかにも吉郎らしく尋常ではない。懐手しているのは他人か、いや、自分と解釈してみてもおもしろい。下五「いつてみよ」という命令口調が、いかにも詩に命令形の多い吉郎らしい。最初に「懐手蹼そこにあるごとく」という句を作ったけれど、それだけでは「いかにも俳句めいて助からない気がしたので、『懐手蹼ありといつてみよ』と書きなおしてすこしばかり納得した」と自句自解している。蹼のある手が、単にふところに「あるごとく」では満足できなかったのだ。「あり」とはっきりさせて納得できたのだろう。「出会いがしらにぬっと立っている、しかもふところ手で。見しらぬ街の、見しらぬ男の、見しらぬふところの中だ」「匕首など出て来る道理はない」とも書いている。見しらぬ男の「匕首」ならぬ「蹼」。寒々とした異形の緊張感がある。「蹼の膜を啖(くら)ひてたじろがぬまなこの奥の狂気しも見よ」(『北鎌倉』)という短歌もある。『石原吉郎句集』(1974)所収。(八木忠栄)
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