莉贋コ輔▽繧句・ウ縺ョ句

December 28121999

 ひねもすを御用納めの大焚火

                           今井つる女

いていの職場では、今日で年内の仕事を終了する。といっても、実質的には普段の仕事とは異なり、得意先への挨拶回りや、句のように大掃除をして過ごす職場がほとんどだろう。それも、大半が午前中で終わってしまう。句のように、昔は街のそこここで焚火が見られ、年末気分がいっそう高まったものだが、現在は「どんど焼き」までが目の敵にされる世の中。なかなか「ひねもす」の大焚火など見られなくなった。幸いなことに、我が家の近所にある小さな工場では、委細構わずに派手に焚火をする。何を作っているのかはわからないが、普段でもときどき焚火をしているので、相当な木くずが出るようだ。したがって、例年の仕事納めの日には、とにかく盛大に一日中燃やしつづけるのである。その場を通りかかるのが、いつしか私の年末の楽しみになってしまった。通りかかるだけで、顔がかっと熱くなる。しばらく立ち止まって、燃え盛る炎を見つめるのは快楽と言ってもよい。さて、このページに職場からアクセスしてくださっている皆さまとは、しばらくお別れですね。一年間のご愛読、ありがとうございました。よいお年をお迎えくださいますように。(清水哲男)


August 1982006

 一筋の湯の町沈め星月夜

                           今井つる女

月夜、ほしづきよ、ほしづくよとも。月はなく、満天の星が月夜のように明るい秋の夜、月が主役となる前の今頃からか。〈遠きものはつきり遠し星月夜  広瀬ひろし〉とも詠まれているが、月夜より澄んだ空気感がある。掲句は、昭和36年、箱根の大平台温泉にて星野立子を囲んだ句会での一句である。その頃、祖母つる女も含め私達一家は、箱根の入り口の風祭(かざまつり)という、今思えば風情ある名前の町に住んでいた。当時は、万屋(よろずや)が一軒あるだけの山里であったが、星空、とりわけ濃く流れる銀河が忘れがたいのは、私の場合五十年近く前だからか。小学生の頃初めてプラネタリウムに行った時、たいしたことないなあ、と思ったのも忘れがたい。大平台温泉は、国道1号線から分かれる道沿いに小じんまりと宿が並ぶ。その日の第二句会の締め切りは午後八時。登山電車を降り、立子一行が待つ宿に向かう作者に、峡(かい)の空から星が降る。星月夜、という季題を得てさらりと生まれた一句と思う、しんとした夜気が感じられる。「沈む」ではなく「沈め」として軽く切れ、星月夜に焦点がしぼられる、考えてそうしたわけではないと思うが。今日八月十九日は、奇しくもつる女の祥月命日、一昨年十三回忌を修した。偶然ながら8.19,「はいく」の日。2006.8.19が土曜日なのも何かの縁かと句集を読み返し、今までに例句の少ない季題を選んでみた。今や都会ではまず出会えないということもあるけれど、美しさゆえ、句になりづらい季題のひとつと思う。『花野』(1974)所収。(今井肖子)


November 30112007

 真白なショールの上に大きな手

                           今井つる女

ョールは女のもの。大きな手は男のもの。二つの「もの」には当然のように性別が意図され規定される。ショールの上に手が置かれる間柄を思うと、この男女は夫婦、または恋人同士。ショールは和装用だから男もまた和装であってよい。「もの」しか書かれていないのに、その組み合わせはつぎつぎとドラマの典型を読者に連想させる。上原謙と原節子、佐田啓二と久我美子、はたまた鶴田浩二と岸恵子。こんな組み合わせのカップルだろうか。オダギリジョーとえびちゃんではこうはならない。つまりこのドラマには、恋愛や夫婦の在り方や倫理観や風俗習慣など、明治三十年生まれの「女流」から見たコンテンポラリーな風景と意識が明解に映し出されている。時代に拠って変化するものは、後年みると古臭く見える。それは当たり前だろう。だからといって草木や神社仏閣の情緒に不変のものを求めるのは現在ただ今の自己への執着を放棄することにならないか。現在ただ今の、流動しかたちを定めない万相の中にこそ時代の真実があり、自己の生があり、その一瞬から永遠が垣間見える。「写生」とはそういう特性をもつ方法である。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


September 2892008

 人下りしあとの座布団月の舟

                           今井つる女

布団から下りただけなのですから、数センチの高さのことなのでしょう。しかし、読んだときに思い浮かべたのは、もっと大きな、ゆったりとした動きでした。それはたぶん、「舟」という乗り物が、最後にでてくるからなのです。「人」「月」「舟」、放っておいてもロマンチックな空想へいってしまう言葉たちを、「座布団」が中心にどしりと座り込んで、現実とつなげているようです。それでも依然として句は、人をどこか未知の世界へ運んでくれています。人が座っていたあとの、なだらかなへこみが、舟のかたちをしていると詠っているのでしょうか。あるいはへこみから視線を上空へ向ければ、夜空に舟の形をした月が浮かんでいるということなのでしょうか。かぐや姫を持ち出すまでもなく、あるいは魔法の絨毯に言及するまでもなく、句には、どこか異世界のにおいのする素敵な光がみちています。ここから自由にどこへでも、わたしたちは漕ぎ出してもいいのだと。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


April 0542014

 花の闇静かに人の気配あり

                           今井つる女

ういう花の闇には、今やなかなか出会えない。満開の夜桜を観にちょっと出かけてみたが、都内はどこも人がひしめき合っていて桜はライトアップされている。この句は昭和五十四年作、そのころ我が家を含め三本の桜の大樹が作者の部屋の窓から見えたはずである。漆黒の闇を満開の桜が仄白く照らすともなく照らす花の夜、窓辺に居るとふと人の気配がする。その気配に花の闇はわずかにゆれ、より一層静けさを増したのだろう。静かに、と言っているのが一読した時は説明のような気がしたのだが、人の気配を静かと言うことで花の闇の静けさがより引き立つのだ思うようになった。手のひらサイズの句集『吾亦紅』(1998)、変な行き詰まり方をしてるな、と自覚した時に読む。(今井肖子)




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