December 301999
水仙が捩れて女はしりをり
小川双々子
正月用の花として、いま盛んに売られている水仙。可憐な雰囲気だが、切り花として持ち歩くには少々厄介だ。すぐにポキッと折れそうな感じだし、「水仙やたばねし花のそむきあひ」(星野立子)と、あまりお行儀がよろしくない。それがこともあろうに、水仙の花束を持って走っている女性がいるとなったら、これはもうただならぬ気配だ。師も走るという季節(句は年末を指してはいないが)ではあるけれど、いつにせよ、花を持った人の走る姿は確実に異様に写るだろう。このときに作者は、捩(ねじ)れている水仙の姿を、その女性と一体化している。実際は花が捩れているのだが、女性その人もまた水仙のように捩れていると……。双々子には他に「女体捩れ捩れる雪の降る天は」があり、女性の身体と「捩れ」は感覚的に自然に結びついているようだ。もちろん、女性を貶しているのでもなく蔑視しているのでもない、念のため。キリスト者だから、おそらくは聖母マリア像にも、同様な「捩れ」を感じているはずである。誰にでもそれぞれに固有に備わっている特殊な感覚の世界があり、そのなかから私たちは一生抜け出すことはできない。『小川双々子全句集』(1991)所収。(清水哲男)
March 102002
我法学士妻文学士春の月
小川軽舟
句集の他の句から推察して、作者が学生結婚だったことがうかがわれる。「水仙や学生妻の紅を引く」。したがって、掲句は春三月に二人そろって卒業したことへの感慨である。いや、感慨というよりも偶感と言うべきか。偶感のほうが、春の月には似つかわしい。すなわち、卒業と同時に二人とも「学士」なるものになっちゃったんだと、ふと思ったのだ。そのあたりの可笑しみ。句集の序文で藤田湘子は「近頃の青年はこうしたことをぬけぬけと言うのか」と思ったと書いているが、別に「ぬけぬけ」でも「しゃあしゃあ」でもない。「学士様ならお嫁にやろか」と言われた戦前ならばともかく、戦後のおおかたの大学卒業者には、おのれが学士であるなどと認識している人のほうが珍しいだろう。日本で学士制度が現れるのは1872年(明治五年)の学制からで、学位の一つであったが、86年(明治十九年)の帝国大学発足以後「学士」は称号となり、三年在籍を要件とした。現在の新制大学では四年在籍を履修要件とし、称号扱いである。この称号すらもが、もはや気息奄々の状況なのだから……。夫婦そろっての学士などとは、大昔ならば大変な快挙だと誉めそやされたかもしれないが……と、そんなこともちらりと頭をよぎり、作者は苦笑しているのである。作者の句に至る事情は知らなくても、掲句単体を読んで苦笑する読者も、かなりおられるのではあるまいか。『近所』(2001)所収。(清水哲男)
January 232003
水仙を接写して口尖りゆく
今井 聖
季語は「水仙(すいせん)」で冬。「雪中花(せつちゅうか)」とも。活けてある水仙を撮影しているのではなく、戸外での花を「接写」しようとしているのだろう。風があるので、なかなかシャッター・チャンスが訪れない。風が途絶える瞬間をねらっている。三脚を使わない手持ちのカメラだとしたら、手ぶれにも気を使う。息をとめるようにして構えていると、だんだん「口」が尖(とが)ってくる。ふとそのことに気づいて、苦笑している句だ。最近の植物園などに出かけると、花にカメラを構えている人の増えたこと。定年退職後と思われる年齢の人が、圧倒的に多い。昔は絵を描いている人のほうが多かったが、近頃では完全に逆転してしまった。で、見ていると、たいていの人が「接写」に夢中になっているようだ。みなさんが掲句そっくりに、それぞれ口を尖らせていると思うと可笑しくもなるが、そんなふうに夢中になれるところが接写の醍醐味なのだろう。ただ、いささか気になるのは、昨今の花の写真というと、接写による大写しの写真が氾濫していることだ。なんだか、花の種袋を見せられているような気がしてならない。一概によろしくないとは言わないけれど、もっと距離を置いて花を楽しむ姿勢があってもよいのではなかろうか。間もなく、梅の季節がやってくる。きっと、テレビでは初咲きの花を大写しにすることだろう。私は、梅や桜の一輪を解剖して見るよりは、むしろぼおっとした遠景として眺めるほうが好きである。「俳句研究」(2002年3月号)所載。(清水哲男)
January 202015
このあたり星の溜り場穴施行
酒井和子
穴施行(あなせぎょう)とは、餌が乏しくなる寒中に鳥や獣に食べものを施す習俗。寒施行、野施行ともいい、三升三合三勺の米を炊いて作った小さな握り飯を獣が出入りしそうな洞の前や大樹の根方などに置く。翌朝、食べものがなくなっていると豊作になると言われるが、この習俗は吉兆占いというより、ときに害獣となる敵であっても、この地に生きるものとして寒さや飢えを思いやる気持ちが勝っているように思われる。凍るような空に満天の星がひとところかたまり灯っているのも身を寄せ合っているようにも思え、また、この冬に命を落とした生きものたちがまたたいているようにも見え、その明るさに胸がしめつけられる。〈紙子着てわがむらぎものありどころ〉〈水仙の木戸より嫁ぎゆきにけり〉『花樹』(2014)所収。(土肥あき子)
March 012016
今日はもう日差かへらず蕗の薹
藤井あかり
蕗の薹は「フキノトウ」という植物ではなく、「蕗」のつぼみの部分。花が咲いたあと、地下茎から見慣れた蕗の葉が伸びる。土筆と杉菜のように地下茎でつながっている一族である。しかし、土筆が「つくしんぼ」の愛称を得ているような呼び名を持たないのは、そのあまりにも健気な形態にあるのだと思う。わずかな日差しを頼りに地表に身を寄せるように芽吹く蕗の薹。頭の上を通り過ぎた太陽の光りが、明日まで戻ることはないのは当然のことながら、なんとも切なく思えるのは、太陽に置いてきぼりにされたかのような健気な様子に心を打たれるからだろう。雪解けを待ちかねた春の使いは、今日も途方に暮れたように大地に色彩を灯している。本書の序句には石田郷子主宰の〈水仙や口ごたへして頼もしく〉が置かれる。師と弟子の風通しのよい関係がなんとも清々しい。『封緘』(2015)所収。(土肥あき子)
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