2000N1句

January 0112000

 星屑と云ふ元日のこはれもの

                           中林美恵子

日の句は多々あれど、じわりと心に染み入ってくるような美しい句はそんなにあるものではない。どことなくクリスマスの余韻を引きずっているような雰囲気もあるが、元日に「こはれもの」をそっと重ね合わせた発想は素晴らしい。しかも、スケールはとてつもなく大きいのだ。作者も着想したときには、きっと「やったア」と思ったでしょうね。うむ、年頭にこの一句を据えられたことで、当ページの未来は開けたも同然だ。……というほどに、気に入ってしまった。いま出ている角川版歳時記の一つ前のバージョンで見つけた句だ。ところで掲句とは関係ないのだが、実作者の方々に一言。近着の俳句雑誌で「紀元2000年」と表記した句を散見する。むろん「西暦紀元」の意だとはわかるが、私はこの表記に賛成しない。というのも、日本では戦前戦中に「紀元」というと、すべてが「皇紀」として認識されていたからだ。「皇紀」は1872年(明治5年)に、国家が神武天皇即位の年を西暦紀元前660年と定めたものだ。この物差しに従うと、今年は「紀元2660年」という勘定になる。いまでも、一瞬「紀元」即「皇紀」と反応する人は大勢いるので、厭な時代を思い出してしまうことにもなる。加えて、後世の人が「西暦紀元」なのか「皇紀紀元」なのかと混乱する危険性は十分にあり、当の作者にしても「歴史に無知な俳人だ」と、いらざる誤解を受けかねないからでもある。(清水哲男)


January 0212000

 留守を訪ひ留守を訪はれし二日かな

                           五十嵐播水

句で「二日」は、正月二日の意。以下「三日」「四日」「五日」「六日」「七日」と、すべて季語である。最近では「二日」も「三日」もたいして変わりはしないが、昔はこれらの日々が、それぞれに特別の表情を持っていたというわけだ。「二日」には初荷、初湯、書き初めなどがあり、明らかに「三日」や「四日」とは違っていた。年始回りに出かけるのも、この日からという人が多かった。私が子供だったころにも「二日」は嬉しい日だった。大晦日と元日は他家に遊びに行くのは禁じられていたから、この日は朝から浮き浮きした気分であった。掲句は、賀詞を述べようと出かけてみたらあいにく相手が留守で、やむなく帰宅したところ、留守中に当の相手が訪ねてきていたというのである。どこで、どうすれ違ったのか。いまならあらかじめ電話連絡をして出かけるところだけれど、昔は電話のない家が大半だったので、えてしてこういう行き違いが起きたものだ。ヤレヤレ……という感興。作者の五十嵐播水は1899年(明治32年)生まれ。虚子門。百歳を越えて、なお現役の俳人として活躍しておられる。あやかりたい。(清水哲男)


January 0312000

 賀状うづたかしかのひとよりは来ず

                           桂 信子

かりますよね、この切なさ。ちょっと泣きたくなるような心持ち。三日になっても配達されないということは、もう来ないのだと諦めている。でも、念のために「うづたか」い年賀状の山から、二度三度と見返しているのだろう。たった一枚の紙切れながら、その人にとっては重要な意味を持つ賀状もある。「来ず」と断言してはみたものの、また明日からしばらくは、ドキドキしながら郵便受けをのぞきに出るのである。覚えは私にもあり、しかし来れば來たで簡単な文面の真意を探るべく、けっこう悩んだりするのだから罪な風習もあったものだ。かと思うと、久保より江にこういう句がある。「ねこに来る賀状や猫のくすしより」。「くすし」は「薬師・医」で、つまり猫のお医者さんだ。『吾輩は猫である』には「元朝早々主人の許へ一枚の絵葉書が来た」とあって、主人が描かれている動物の正体がわからず四苦八苦する図が出てくる。つまり、漱石の猫には主人を経由して賀状が届いたのだが、句の場合はストレートに配達されたわけだ。でも、こうして猫には大切な人からちゃんと来ているのに、人には来ないのかと思うと、よけいに掲句が切なく思えてくる。今からでも遅くはない。どこのどなたかは存じませんが、心当たりのある人は、すぐに作者に返事を出してあげなさい。『女身』(1955)所収。(清水哲男)


January 0412000

 買初にかふや七色唐辛子

                           石川桂郎

初(かいぞめ)は「初買」とも言い、新年になって初めて物を買うことだ。といっても、スーパーで醤油や味噌などを買うのとは違う。新年を寿ぐために、いささか遊び心の入った買い物をすることを指している。だから、いろいろと買うなかで、本年は「買初となすしろがねの干鰈」(岡本差知子)と思い決めたりする。句として公表するとなれば、おのずから作者のセンスが問われるわけだ。作者は「七色唐辛子」を「買初」とした。なかなかに小粋な選択ではないか。買初コンテストがあるとしたら、必ずベスト・テンには入りそうである。「とうんとうんと唐辛子、ひりりと辛いは山椒の実、すはすは辛いは胡椒の粉、けしの粉、陳皮の粉、とうんとうんと唐辛子の粉」と、これは江戸の町を歩いた振り売りの七色唐辛子屋の売り声だそうな。陳皮(ちんぴ)は蜜柑や柚子の皮。これだと五色しかない計算になるが、実際に五色しかなかったのか、あるいは売り声の調子を出すために二色が省かれているのか。ちなみに「七色唐辛子」は江戸東京の呼び方で、関西では「七味(しちみ)」と言う。日頃の私は「一味」党だけれど、買初に「一味」では、「一」はよくても色気が足りなさ過ぎる。今年の買初は、何にしようかな。(清水哲男)


January 0512000

 ひとびとよ池の氷の上に石

                           池田澄子

の水が凍っている。そこまでは何ごとの不思議なけれど、張った氷の上に石があるとなれば、不思議な驚きの世界となる。いずれ誰かが置いたものか、何かの加減で転がり落ちてきたものではあるだろう。だが、こんな光景に出くわしても、多くの人は不思議とも思わないに違いない。立ち止まることはおろか、感覚に不思議が反応しないので、何も気に止めずに通過してしまうだけである。そこでむしろその不思議さに作者は注目し、「ひとびとよ」と呼びかけてみたくなったのだ。実際、私たちが失って久しい感覚の一つは、物事に素直に驚くそれではなかろうか。少々のことでは驚かなくなっており、その「少々」の幅も拡大する一方だ。おそらくは、バーチャルな不思議世界に慣れ過ぎてしまった結果の「鈍感」なのだろう。でも、バーチャルな世界では、本当に不思議なことは何一つ起こらないのだ。そのことを踏まえて句を読み返すと、作者の目が新鮮な驚きに輝いていることがわかる。思わずも「ひとびとよ」と呼びかけたくなった気持ちも……。呼びかけられた一人としては、謙虚に自省せざるをえない。俳誌「花組」(2000年・冬号)所載。(清水哲男)


January 0612000

 吾が売りし切手をなめて春着の子

                           大林秋江

月に着るために新調した晴れ着が「春着」。女性や子供の晴れ着について言うことが多い。郵便局に、ちょこちょこっと入ってきた春着の女の子。日頃、郵便局にはめったに子供はいないから、ましてや春着の子ともなれば目立つだろう。友だちに、年賀状の返事でも出すのだろうか。オクすることなく切手を求めると、これまたオクすることなく糊面をペロリとなめちゃったのだった。あれは何と言うのか、作者が糊面を湿らせるためのスポンジ容器を指さすひまもあらばこそ、である。「あら、まあ」と、読者には正月ならではの楽しい句だけれど、売った当人にペロリの図は、相手が子供でもちょっと引っ掛かるというところ。実は私もペロリ派で、一枚か二枚くらいのときはペロリとやってしまう。それに、なんとなくあのスポンジは頼り無い気もしたりして……。いつだったか、谷川俊太郎さんが「ボクも切手になりたいよ」と言ったことがある。「なぜですか」。「そりゃ、大勢の人にペロペロなめてもらえるからさ」。「……」。ということは、谷川さんもペロリ派なんだと、こちらには納得できたのだが。(清水哲男)


January 0712000

 今も師に遠く坐すなり新年会

                           風間ゆき

社の新年会か、同級会なのか。いずれにしても、先生という人を中心にした集いである。でも、新年会は無礼講ということで、席順はなし。どこに坐ってもよいのだが、やはりいつもとと同じように、先生からは遠く離れたところに坐ってしまう。昔からである。私にもそういうところがあるので、身に沁みる句だ。小学生の頃から、どうも先生という人が苦手で、なるべく離れるようにしてきた。敬遠だ。よく先生の手にぶら下がって甘えている女の子がいたけれど、私にしてみれば気が知れなかった。だから、こうした会合ではなくとも、先生がおられなくても、そんな気質が日常の場でひょこひょこと顔を出してくる。電車に乗るときなどもそうで、めったなことでは一番前の車両に乗ることはしない。いや、できない。いつも、一番後ろに乗る。自然と、そうなってしまっている。いわゆる「引っ込み思案」というヤツだ。昔の同級生からは「よく、そんな男にラジオの仕事が勤まるな」と言われるのだが、私に言わせれば、きっかけさえあれば「両極端は簡単に一致する」ということになる。あなたの場合は、どうでしょうか。(清水哲男)


January 0812000

 凧の空女は男のために死ぬ

                           寺田京子

臘から、この句を反芻しては解釈に呻吟してきた。わかりやすいようでいて、わかりにくい。作者が、凧揚げの空を見ているところまではわかる。奴凧、武者絵凧、あるいは「龍」の文字凧など。揚げているのはほとんどが男たちだから、「凧の空」は男の世界だ。でも、なぜ「女は男のために死ぬ」という発想につながるのだろうか。もつれた凧糸をほどくように時間をかけてみても、根拠はよくわからない。私の乏しいデータによると、作者は十代で死も覚悟せざるをえない胸部の病におかされたという。したがって「死」の意識はいつも実際に身近にあったわけで、たとえば演歌のように演技的に発想しているのではないことだけは確かだろう。だが、なぜ「男のために」なのか。十日間ほど考えているうちに得た一応の結論は、ふっと作者が漏らした吐息のような句ではないかということだった。字面から受ける四角四面の意味などはなく、ふっとそう感じたということ。男社会を批判しているのでもなく、ましてや男に殉じることを認めているのでもなく、そうした社会意識からは遠く離れて、ふっと生まれた感覚に殉じた一句。試験の答案としては零点だろうけれど、人は理詰めでは生きていないのだから、こういう読み方があってもいいのかなと、おっかなびっくりの鑑賞でした。『鷲の巣』(1975)所収。(清水哲男)


January 0912000

 暖炉列車 津軽まるごと暖める

                           野宮素外

炉列車は、客室内でストーブを焚いて走る列車のこと。燃料は石炭だ。かつての雪国ではお馴染みだったストーブ列車も、暖房システムが変化した結果、現在では青森県の「津軽鉄道」にしか残っていない。毎年十一月十六日から三月十五日まで、津軽五所川原と津軽中里間の二往復だけを走っている。はっきり言って、観光客用だ。……と、これらの知識とこの句とは、発売中の「アサヒグラフ」(2000年1月14日号)に載っている宮本貢さんのレポートから仕入れた。暖冬の東京で冒頭の大きな見開き写真を見ていると、外国の風景のようにも見えてきてしまう。団体客が入ると二両から三両編成になるというが、撮影日は大雪だったので、たった一両で走っている。この写真が、実に良い。列車の姿は小さくて消え入りそうに頼りないのだけれど、乗車している人はみな句のような心持ちになっている。そういうことが、写真を見ているとよく伝わってくる。「津軽まるごと暖める」は、大袈裟ではなく、ごく自然な発想だということが納得される。句は乗客から募集したものだというが、作者の名前から推察してズブの素人ではあるまい。一字空きになっているのは、漢字の詰め合わせを嫌ったためだろう。(清水哲男)


January 1012000

 一番寺の鐘乱打成人の日の老人

                           原子公平

者、六十代の句。「秩父行」の前書からすると、実景だろう。成人の日を祝って鐘を撞く風習。撞いているのは老人で、べつに意図して「乱打」しているわけでもなかろうが、六十代の原子公平にはそのように聞こえたということだ。このとき「乱打」は実際の現象というよりも、聞き手の胸中に生起したイリュージョンだと思う。若者たちの門出を寿ぐためだから、撞き方のテンポは早い。それが「乱打」と聞こえたのは、老人としてのおのれの若者に対する思いが、千々に乱れているからである。その思いは、なにも今日成人の日を迎えた人たちに対するそれだけではないのであって、みずからの過去の若者、そして現在も抱えている若者意識、そうしたところへの思いが早鐘のように心を乱打しているのだ。現在の若さへの賛嘆、羨望、嫉妬、失望……。そして、自身の若き日への自負、誇り、悔恨、失意……。そうしたものが、儀礼的形式的に撞かれているはずの鐘の音に乗って聞こえてくる。いやでも「老い」を自覚させられはじめた年代ならではの一句だ。そこで口惜しいのは、私にも作者の苛立ちがよくわかってしまうことである。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


January 1112000

 寒晴やあはれ舞妓の背の高き

                           飯島晴子

晴。寒中のよく晴れた日。季語のようであるが、これは作者の発明。歳時記での季語は「寒」である。さて、またしても厄介な「あはれ」だ。すらりと背の高い現代娘の舞妓ぶりを見て、「あはれ」と反応しているわけだが、どういう種類の「あはれ」なのだろう。それこそ「すらり」と読んで受けた印象では、どこか危なっかしい美しさに「あはれ」を当てたように思われる。たとえて言えば、寒中に豪奢な芍薬の花を見た感じか。確かに美しいけれど、季節外れだし、いささか丈もありすぎる。伝統美からは背丈ばかりではなく、立ち居振る舞いにおいてもどこか逸脱している。危なっかしい。したがって、美しくも、そして切なくも「哀れ」なのだろう。実は、この句の「中七下五」は秋にできたものだと、講談社『新日本大歳時記』で作者が作句過程の種明かしをしている。大阪のホテルで開かれた出版記念会に、祇園から手伝いに来ていた舞妓を見ての印象だという。「『寒晴』にたどりつくまでパズルのピースを何度入れ替えたことか。季語は、季語以外の部分と同時に絡まるように出てくるのが理想的である。あとからつけて成功するには苦労する。意地で『寒晴』まで辛抱したというところである」。意地を張った甲斐はあり、どんぴしゃりと決まった。『寒晴』(1990)所収。(清水哲男)


January 1212000

 穴あらば落ちて遊ばん冬日向

                           中尾寿美子

に落ちたことで、世界的に有名になったのは「不思議の国のアリス」だ。日本で知られているのは、昔話「おむすびころりん」に出てくるおじいさん。穴に落ちたことでは同じだけれど、両者の心持ちにはかなりの違いがあるようだ。アリスの場合には「不本意」という思いが濃く、おじいさんの「不本意」性は薄い。アリスは不本意なので、なにかと落ちたところと現世とを比べるから、そこが「不思議の国」と見えてしまう。一方、おじいさんはさして現世を気にするふしもなく、暢気にご馳走を食べたりしている。この句を読んで、そんなことに思いが至った。作者もまた、現世のあれこれを気にかけていない。一言でいえば、年齢の差なのだ。このときに、作者は七十代。「穴掘れば穴にあつまる冬の暮」という句も別にあって、「穴」への注目は、ごく自然に「墓穴」へのそれに通じていると読める。ひるがえって私自身は、どうだろうか。まだ、とてもこの心境には到達していないが、わかる気はしてきている。そういう年齢ということだろう。遺句集『新座』(1991)所収。(清水哲男)


January 1312000

 ふるさとは風の中なる寒椿

                           入船亭扇橋

木忠栄個人誌「いちばん寒い場所」(30号・1999年12月刊)で知った句だ。「品のいい職人さんが羽織を着て、そのまんま出てきたような涼しい姿」とは、落語好きの八木君の扇橋(九代目)評。扇橋の俳号は「光石」で、高校時代には水原秋桜子「馬酔木」の例会に出ていたというから、筋金入りだ。この人の故郷は知らないが、望郷の一句だと思われる。故郷を思い出し、その姿を彷彿させるというときに、人はディテールにこだわるか、逆に細々した具体物を捨ててしまう。句は後者の例で、故郷は「風の中なる寒椿」の自然に代表され、人間の匂いは捨象されている。このことから読者は、詠まれている「ふるさと」の寒々とした風景にリリカルに出会い、次には自身の故郷の冬のありようへと心が移っていく。望郷の念やみがたくというのでもなく、時に人は季節に照応して、このように故郷を偲ぶ。道具立ての揃った「うさぎ追いしかの山……」の唱歌よりも、モノクロームの世界にぽちりと紅い椿を置いてみせたこの句のほうが鮮やかなのは、俳句的抽象化の力によるものだろう。大人の句だ。(清水哲男)


January 1412000

 一畳の電気カーペットに二人

                           大野朱香

か暖かそうな句はないかと探していたら、この句に行き当たった。侘びしくも色っぽい暖かさだ。その昔に流行した歌「神田川」の世界を想起させる。あの二人が風呂屋から戻ると、アパートではこういう世界が待っているような……。小さな電気カーペットだから、二人で常用するには狭すぎる。日ごろは女の領分である。そこに、すっとさりげなく男が入ってきた。そんな暖かさ。このとき、男はわざわざ暖をとりに入ってきたのではあるまい。そこがまた、作者には暖かいのだ。それでよいのである。従来のカーペット(絨緞・絨毯)だと、こういう世界は現出しようもない。生活のための新しい道具が、新しいドラマを生んだ好例だろう。俳句は、作者が読者に「思い当たらせる」文学だ。その手段の最たるものは季語の使用であるが、その季語も時代とともにうつろっていく。「絨毯(じゅうたん)」でいえば、柴田白葉女に「絨毯の美女とばらの絵ひるまず踏む」がある。この句のよさは、本当は踏む前に一瞬「ひるんだ」ところにあるのだけれど、若い読者に理解されるかどうか。電気カーペットと同じくらいに、絨毯の存在も身近になってしまった。『21世紀俳句ガイダンス』(1997)所載。(清水哲男)


January 1512000

 春巻きを揚げぬ暗黒冬を越え

                           摂津幸彦

者には「暗黒の黒まじるなり蜆汁」を含む「暗黒連作」があり、これは最後に置かれた句。引用句からもわかるように、ここで「暗黒」は単に暗闇の状態を言う言葉ではなく、物質化した実体のように扱われている。「暗黒と鶏をあひ挽く昼餉かな」では、そのことが一層はっきりする。「暗黒」は、いわば暗闇のお化けなのだ。したがって「冬を越え」の主語は「暗黒」という実体である。軽い意味ではようやく暗い冬の季節が終わりに近づいた安らぎの気持ち、重い意味では自身の内面の暗闇が晴れようとしている安堵に向かう感情。それらの心持ちが、春巻きを揚げる行為のうちにというよりも、「春巻き」という陽性な名前を持つ食べ物があることに気がついたことのなかに込められている。春巻きを揚げている厨房の窓から、すうっと「暗黒」が冬山の向こうへと遠ざかっていくのが見えるような、そんな実体感を伴う句だ。でも、句への発想はふとした思いつきからでしかない。言葉遊びの世界。下手をすれば安手で読めたものではない作品になるところを、徳俵に足をかけ、作者はぐっと踏みこたえている。この踏みこたえぶりこそが、いつだって摂津幸彦の技の見せ所であった。『姉にアネモネ』(1973)所収。(清水哲男)


January 1612000

 春雨や頬かむりして佃まで

                           辻貨物船

節に外れた句の掲載をご寛容いただきたい。「貨物船」は、一昨日急逝した詩人にして小説家・辻征夫の俳号である。享年六十歳。下町をこよなく愛した「ツジ」(と、私は呼び捨てにしていた)らしいユーモラスでもあり、ちょっぴり哀しくもある句だ。詩や小説とはちがって、決して上手な俳句作りじゃなかったけれど、我らが「余白句会」には欠かせない存在だった。いつも彼の周辺には、春風のように暖かく人を包む雰囲気が漂っていた。その「ツジ」が「頬かむり」もしないで、あろうことか忽然と姿を消しちゃったのだ。「これが飲まずにいられよか」と、いま私はビールを飲みながら、この原稿を書いている(15日午前10時)。この数行を書くのに一時間。「まだ中有にいるはずのツジよ、あんまりオレを混乱させるなよ。キミはすぐにばれる嘘つきの名手だったから、今度のことも、すぐにばれてほしいよ。もう一度この世に戻って、みんなに挨拶くらいして行けよ」。昨夜遅くに八木幹夫から訃報を知らされたときには、びっくりして涙も出なかった。でも、いまは違う。涙がじわりと滲み出てきてしまう。キミが元気だったら参加するはずの新年会が、今夜ある。元気でなくてもいいから、会には必ず出てこいよ。きっと、だぜ。……なんて、いくら書いても空しい。世紀末を生きた凄腕抒情詩人の冥福を祈る。そう言うしか、他に言葉はない。合掌。『今はじめる人のための俳句歳時記』(角川書店・1997)所収。(清水哲男)


January 1712000

 いざさらば雪見にころぶ所迄

                           松尾芭蕉

国の方には申しわけないが、東京などに住んでいると、降雪というだけで心がざわめく。はっきり言うと、うれしくも浮き浮きしてくる。背景には、いくら降ったところでたいしたことにはならないという安心感があるからだ。せいぜい、数時間ほど交通機関が混乱するくらい。全国的にもっと降ったであろう江戸期にしても、江戸や京の町の人たちは、花見や月見のように「雪見」を遊山のひとつとして楽しんでいたようだ。やはり、うれしくなっちゃつたのである。現代では「雪見」の風習はすたれてはいる。が、昔の人と同じ心のざわめきは残っており、居酒屋などで「雪見酒」と称する遊び心の持ち合わせは失われていない。ただ、昔の人と違うのは、雪を身体で受け止められるか否かの点だろう。「雪見にころぶ」というのは、今日の私たちが誤ってスッテンコロリンとなる状態ではありえない。もっともっと深い雪のなかで「雪見」と洒落れるのには、必ず「ころぶ」ことが前提の心構えを必要とした。その「ころぶ」ことをも含めた「雪見」の楽しさであった。なるほど「いざさらば」なのである。「いざさらば」は滑稽にも通じているが、真剣にも通じている。身体ごと雪を体験した時代の人の遺言のような句だ。(清水哲男)


January 1812000

 粕汁にぶつ斬る鮭の肋かな

                           石塚友二

は「あばら」。文句なしに美味そうだ。妙に郷愁的情緒的に詠んでいないところもよい。ワイルドな味わいの句。よい映画批評は読者を映画館に誘うが、それと同じように、こういう句を読むと無性に粕汁が食べたくなる。以上で、句については何も書くことなし。これで、おしまい。さて、いつか触れたような気もするが、私は日本酒アレルギーだ。ビールならいくらでも飲めるのに、日本酒はからきし駄目。猪口一二杯で、その場はともかく、翌朝かならず頭痛に悩まされる。だから、正月の他家訪問と田舎の結婚披露宴出席とは苦手である。いずれの場合も、日本酒が出てくる。おめでたい席だから、口をつけないわけにはいかない。ビールのほうがよいなどと無礼なことも言えないので、観念して飲む。そんな私が、粕汁を食べるとどうなるか。生体実験を重ねた結果、やはり翌朝にかすかな反応が出る。風邪を引いても頭痛とは無縁の体質が、少しゆがむのだ。もっとも、奈良漬屋の前を通っただけで顔が赤くなる人もいるそうだから、まだマシではあるけれど……。困ったことに、粕汁の味は好きときている。今夜、この「禁断の味」を賞味すべきかヤメにすべきか。とんでもない句を読んぢまった。と、普段ならそうなるところだが……。(清水哲男)


January 1912000

 強運の女と言はれ茎漬くる

                           波多野爽波

語は「茎漬(くきづけ)」で冬。大根や蕪の茎や葉を樽に入れ、塩を加えて漬けるだけの簡単な漬物だ。食卓に上がると、その酸味がいっそうの食欲をそそる。じわりとした可笑しみのある句。主婦が茎を漬けているにすぎない写生句だが、わざわざ主婦を「強運の女」としたところが、爽波一流の物言いだ。つまり、わざわざ「強運の女」を持ち出すこともないのに、あえて言ってしまう。そうすると、平凡な場面にパッと光が差す。日常が面白く見える。いつもこんなふうに日常を見ることができたら、さぞや楽しいでしょうね。そして重要なのは、作者が「強運の女」を揶揄しているのでもなければ皮肉を言っているのでもない点だ。ここには、そんな底意地の悪さなど微塵もない。むしろ、たいした「強運」にも恵まれていない女に、「それでいいのさ」と微笑している。爽波は「写生の世界は自由闊達の世界である」と書いているが、その「自由闊達」は決して下品に落ちることがなかった。ここが凄いところ。余人には、なかなか真似のできない句境である。花神コレクション『波多野爽波』(1992)所収。(清水哲男)


January 2012000

 缶コーヒー膝にはさんで山眠る

                           津田このみ

語「山眠る」は、静かに眠っているような雰囲気の山の擬人化。そう聞かされて「なるほどねえ」と思い、思っただけで納得して、もしかすると一生を過ごしてしまうのが、私のような凡人である。でも、世の中にはそんな説明だけでは納得せずに、「だったら、どんなふうに眠っているのだろう」と好奇心を発揮する変人(失礼っ)もいる。古くは京都の東山のことを蒲団を着て寝ているようだと言った人からはじまって、現代の津田このみにいたるまで、自分の感覚で実証的にとらえないと気が済まない人たちだ。もちろん、こういう人たちがいてくれるおかけで、我ら凡人(これまた、読者には失礼か)の感受性は広く深くなってきたのである。感謝しなければ罰があたる。缶コーヒーを膝に挟むのは、ずっと手に持っているととても熱いからだ。最近の若者は地べたに座りこんで飲んだりするから、熱いととりあえず膝に挟むしかない。そんな「ヂベタリアン」の恰好で、山が眠っているというのだ。すなわち、安眠をしていてるとは言えない山を詠んだのが、この句の面白さ。何かの拍子にこの山の膝から缶が転げ落ちたら、この世は谷岡ヤスジ流に「全国的にハルーッ」となるのである。はやく転げ落ちろ。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)


January 2112000

 うつくしき日和となりぬ雪のうへ

                           炭 太祇

国というほどではないけれど、でも、一冬に一度か二度は深い雪のために学校が休みになった。そんな土地で育ったから、この句の味わいはよくわかる。降雪の後の晴天の景色は、たしかに「うつくしき」としか言いようがない。目を開けていられないほどの眩しさ。うかつに軒下などに立っていると、ドサリと雪が落ちてきたり……。そんななかを登校するのは、楽しかった。一里の道のりなど、苦にならなかった。多田道太郎さんの新著『新選俳句歳時記』(潮出版社)に、この句が引かれている。「『うつくしきひより』とはいいことばだな。『うつくしい』『ひより』って忘れられた良い日本語」と書かれている。多田さん、同感です。「うつくしい」は「きれい」とは違いますからね。私が学生時代を過ごしたころの京都では、まだ「うつくしい」という言葉が日常的に生きて使われていた。とくに女性たちは、よく使っていた。「きれい」というとんがった言葉では表現できない「うつくしさ」が、当の女性たちにも備わっていた。いまでも使っている「京女」はいるだろうか。いるような気はする。(清水哲男)


January 2212000

 ひとの部屋見廻してゐる炬燵かな

                           岡本高明

れぞ「思い当たらせる」句表現の代表格だ。読者の誰もが、思い当たるだろう。他家の部屋に通されて、炬燵(こたつ)をすすめられる。そこに座るまではよいのだが、その後で、誰もがなんとなく部屋を見廻してしまう。あれは、別に何を見ようとするわけではない。所在なく、とも一寸ちがう。なんとなく、なのだ。ほとんど、この行為は無意味かと思われる。深く考えたことはないけれど、ここで強いて言うならば、あれは人が新しい環境に適合するための本能的な行為なのかもしれない。周囲のありようと、できるだけ早くバランスをとるための準備というわけだ。編集者時代、劇作家の飯島匡さんのお宅にお邪魔したことがある。書斎での写真撮影を申し込んだところ、言下に断られた。「親しい友人でも、書斎には通さないことにしてるから……。なぜボクの書棚に『手紙の書き方』なんて本があるのかと、そう思われるだけでイヤなんだよ」。「なるほどねえ」と、私は心のうちで大いに思い当たった。カメラマンと一緒に通された飯島さんの応接間には、あらためて見廻してみると、たしかに見事に何もなかった。「俳句界」(2000年1月号)所載。(清水哲男)


January 2312000

 おそく来て若者一人さくら鍋

                           深見けん二

の色が桜のそれに似ているので、いつのころからか「さくら」は馬肉の異称となった。寿司屋の符丁で、蝦蛄(しゃこ)を「ガレージ」と言うがごとし。ただし、このような半可通の下手な洒落を私は好まない。地下鉄丸ノ内線「新宿御苑」駅の裏手出口のそばに、「さくら鍋」を出す店がある。味噌仕立てではなく、鋤焼(すきやき)風に焼いて食べさせる。ここに仲間と、年に一度か二度あつまる。その都度、誰かの記念日であったり厄落としであったりするのだけれど、ま、みんなで飲む口実さえあればよいというわけ。句の場合も同じような集いであろうが、一人の若者がかなり遅れて来た。必ず来ることになっていたので、一人前だけ別にとってあった。それを、シラフの若者が黙々と食べている図である。なんということもないのだが、みんなが一度食べ終えた鉄の鍋で、桜色の馬肉を焼いている様子は、若者だけに侘びしいものがある。本来の若い血気が、しょんぼりしている。やっぱり、鍋はみんなでわいわいにぎやかに食ってこそ美味いのだ。それを、一人で食べている。よんどころない事情からだろうが、すまなそうな顔をしている。もうすぐ、会はお開きだ。いや、店との約束の時間はもう過ぎているようだ。「ちゃんと食えよ」。思いつつも、しかし作者ははらはらしている。『雪の花』(1977)所収。(清水哲男)


January 2412000

 日脚伸ぶ夕空紺をとりもどし

                           皆吉爽雨

なみに、今日の東京の日没時刻は16時59分。冬至のころよりは30分近く、夕刻の「日脚」が伸びてきた。これからは、少しずつ太陽の位置が高くなって、家の奥までさしこんでいた日光が後退していく。それにつれて、今度は夕空の色が徐々に明るくなり「紺」を取り戻すのである。この季節に夕空を仰ぐと、ひさしぶりの紺色に、とても懐しいような感懐を覚える。「日脚伸ぶ」という季語を、空の色の変化に反射させたセンスは鋭い。まさに「春近し」の感が、色彩として鮮やかに表出されている。私などは、本当の春よりも、新しい季節が近づいてくるこうした予感のほうに親しみを覚える。単なるセンチメンタリストなのかもしれないが、たまさか「よくぞ日本に生まれけり」と思うのは、たいていが移ろいの季節にあるときだ。一方、病弱だった日野草城には「日脚伸びいのちも伸ぶるごとくなり」という感慨があった。本音である。「生きたい」という願望が、自然の力によって「生かされる」安息感に転化している。病弱ではなくとも、「いのち」のことを思う人すべてに、この句は共感を呼ぶだろう。(清水哲男)


January 2512000

 鬱としてはしかの家に雪だるま

                           辻田克巳

びに出られない子供のために、家人が作ってやったのだろう。はしかの子の家には友だちも来ないから、庭も静まりかえっている。家の窓からは、高熱の子がじいっと雪だるまを眺めている。なんだか、雪だるまの表情までが鬱々(うつうつ)としているようだ。雪だるまには明るい句が多いので、この句は異色と言ってよい。どんな歳時記にも載っているのが、松本たかしの「雪だるま星のおしゃべりぺちゃくちゃと」だ。「星のおしゃべり」という発想は、どこか西欧風のメルヘンの世界を思わせる。したがって、この場合の雪だるまは「スノーマン」のほうが似合うと思う。スヌーピーの漫画なんかに出てくる、あの鼻にニンジンを使った雪人形だ。よりリアルにというのが彼の地の発想だから、よくは知らないが、日本のように団子を二つ重ねた形状のものは作られないようだ。どうかすると、マフラーまで巻いたりしている。こんなところにも、文化の違いが出ていて面白い(外国にお住まいの読者で、もし日本的な雪だるまを見かけられたら、お知らせください)。雪だるまの名称は、もちろん達磨大師の座禅姿によっている。だから、堅いことを言えば、ホウキなどの手をつけるのは邪道だ。それだと、修業の足りない「達磨さん」になってしまうから。(清水哲男)


January 2612000

 刀剣の切っ先ならぶ弱暖房

                           川嶋隆史

く感じられる「名刀展」の会場だ。なぜ「弱暖房」なのか。わかる人にはわかる句だが、ただし、わかる人には逆に面白くない句かもしれない。もちろん、ここに掲載したのにはワケがある。作者は、ほぼ私と同年齢のようだ。同世代の人が「刀剣」に関心を抱き、句にまで仕立て上げたことに、それこそ私の関心が動いたからである。恥を話せば、私は京都の大学で美学美術史を専攻し、貴重な刀剣をヤマほど見る機会があったにもかかわらず、怠惰にやり過ごしていた学生であった。実際に刀剣に触れたのは、たった一度きり。それも、遊びに行った後輩の実家でだった。彼は何振りも切っ先を揃えるかたちで抜いて見せてくれ、「触ってみてください。でも、息を吹きかけないようにお願いします」と言った。すなわち、それだけ微妙な反応をする刃物なのである。したがって「弱暖房」にも、うなずいていただけるだろう。息を詰めて持たせてもらった第一印象は、とにかく重いということであり、しかし、手にした刀身をじっと見つめていると、吸い寄せられるような霊気を感じたことも覚えている。世に名刀妖刀の類は多いようだが、あれは手に持ってみてはじめて真価がわかるというものだ。……と、そのときから信じ込んでいる。偶然にこの句に触れたことで、そんなことを思い出した。作者も、きっと手にしたことのある人だろう。句は、言外にそのことを言おうとしているのだと思った。俳誌「朱夏」(28号・1999年12月)所載。(清水哲男)


January 2712000

 狐着て狸のごとく待ちをりぬ

                           岡田史乃

も狸も冬の季語。句の場合は、表に現れているのが狐であり、狸は心理的な産物なので、いわゆる季重なりではないと見たい。当歳時記では「襟巻」に分類した。さて、作者は狐の襟巻きをして、人を待っている。でも、待っている心持ちは狸のようだと言うのである。狐は人を「化かし」、狸は自分で「化ける」。だから、作者の気分は、これから会う人を「化かす」というのではなくて、「化けて」待っているというわけだ。めったにしない狐の襟巻きなので、自然にそんな気持ちになっている。心理的にもそうだし、首筋や肩のあたりの触感も、狸みたいな気分に加わっている。「くくっ」と一人笑いももれているようだ。最近は、とんと狐の襟巻き姿にお目にかからない。持っている人はあっても、動物愛護団体などの目が気になって、着て歩く勇気が出ないこともあるのだろうか。それとも、もうファッションとして時代遅れということなのか。面白いもので、そんな襟巻き姿の女性を見かけると、必ず反射的に、狐とご当人の顔とを見比べたものだった。見比べて、べつに何を思うというのではなく、同じ場所に顔が二つあることへの、軽いショックからだったのだろう。我が家にも、母の狐があった。しかし、母がして出かける姿を一度も見たことはない。そんなご時世じゃなかった。蛇足ながら「狐の手袋」はジキタリスの別称。『ぽつぺん』(1998)所収。(清水哲男)


January 2812000

 寒鴉己が影の上におりたちぬ

                           芝不器男

鴉(かんがらす)は、冬のカラス。「己」は「し」、「上」は「へ」と読む。針の穴をも通す絶妙のコントロール。そんな比喩さえ使いたくなるほどの名句だ。この季節のカラスの動きを、ぴたりと言い当てている。空にあったカラスが、自分の影に吸い寄せられるように降りてきた。それだけのことだが、静止画ではなく、いわば動画をここまで活写していることに、一度でも句作経験のある人ならば、口あんぐりと言うところだろう。「やられた」というよりも「まいりました」という心が、素直にわいてきてしまう。作られたのは1927年(昭和二年)、作者はわずかに25歳だった。昔のカラスは、いまのようにごみ捨て場を漁ったりはしなかった。というよりも、ごみ捨て場には、いまのようにエサとなるようなものは少なかった。だから、エサを求める冬場のカラスは、直接に魚屋や八百屋の店先までをも襲ったという。となれば、人々の感覚としては、昔のカラスのほうが、よほど凶暴にして不吉に思えていたにちがいない。そんなカラスが、いましもさあっと舞い降りてきたのだ。しかも、おのれの影の上にしっかりと……。存在感も抜群だ。この後、カラスはどう動くのだろうか。『麦車』(ふらんす堂文庫・1992)所収。(清水哲男)


January 2912000

 無礼なる妻よ毎日馬鹿げたるものを食わしむ

                           橋本夢道

性読者よ、お怒りめさるな。奥さんとの仲はとてもよかったというのが、作者を知る人たちの一致した弁。句は、妻へのいたわりの反語的表現なのだ。「馬鹿なやつめ」が、愛情表現の反語に通じているのと同じこと。毎日の食卓に気の利いた料理ひとつ出せない貧乏生活を、妻に強いている自責の念が込められている。近代俳句の社会派を代表する夢道は、俳句弾圧事件のために、約二年間の獄中生活を余儀なくされた。代表作の一つ「大戦起るこの日のために獄をたまわる」(1941)は、すさまじいまでの反語表現による抵抗句だ。徳島県吉野川流域の小作農家に生まれ(1903)、十五歳で上京して深川の肥料問屋に奉公。その後いくたびか職をかえ、戦後は銀座月ヶ瀬の役員となった。で、ここで再度女性読者にアピールしたいことがある。何を隠そう。実は、この人は「蜜豆(あん蜜)」を発明し、世間に知らしめた一大功労者なのだ。はじめて蜜豆を売りだしたときのコピーに「蜜豆はギリシャの神も知らざりき」と書いて、これが評判となり、売れ行きが大いに伸びたという話が伝わっている。俳句の世界では自由律の権化のように思われている夢道だが、五・七・五の魅力はちゃあんと承知していたというわけだ。『無礼なる妻』(1954)所収。(清水哲男)


January 3012000

 狼の声そろふなり雪のくれ

                           内藤丈草

藤丈草(1662-1704)は尾張犬山藩士、のちに出家した人。蕉門。もう一度、心をしずめて読み返していただきたい。げにも恐ろしき光景。心胆が縮み上がるようだ。狼の姿は見えないが、見えないだけに、恐怖感がつのる。しかも、外はふりしきる雪。そして、日没も間近い薄暗さ。あちらこちらから間遠に聞こえてきていた鳴き声が、ほぼ一所にそろった。「さあ、里にやってくるぞ」と、作者は恐怖のうちに身構えている。三百数十年前のこの国では、狼がこのように出没していたことが知れる。冬場にエサを求めて里にやってくるのは、カラスなどと一緒だ。句は、柴田宵曲『新編・俳諧博物誌』(岩波文庫・緑106-4)で知った。宵曲は「狼の声の何たるかを知らぬわれわれでも、この句を読むと、丈艸の実感を通して寒気を感ずるほど、身に迫る内容を持っている」と、書いている。「声そろふ」で、きっちりと焦点が定まっているからだ。このように、昔は人と狼との距離は近かった。「送り狼」という言葉が残されているほどに……。「日本における人と狼との間には、慥(たしか)に他の野獣と異ったものがあるので、人対獣の交渉というよりもむしろ人対人の交渉に近い」と、宵曲は書いている。(清水哲男)


January 3112000

 雪の海底紅花積り蟹となるや

                           金子兜太

面を眺めているだけで、一気にゴージャスな気分になってくる。華麗な句だ。そしてよく読み込むと、繊細な感覚の生きた世界でもある。作者は「海底」を「うみそこ」と読ませている。自註が『兜太のつれづれ歳時記』(1992・創拓社)に載っているので、全文を引いておこう。「北陸海岸の宿に泊まって、蟹を食べた。夕方からまた雪がきて、私は雪降りそそぐ日本海の蒼暗を思いやっていた。すると、その昔、奥羽の地に花開いた紅花(べにばな)を積んで、木造船がこの海原を走っていたことを思い出したのである。紅花は船からこぼれ、海底に積もり、やがて蟹になった。いや、そうにちがいない、とまで思いつつ」。私が、これ以上、つけくわえることは何もない。このイリュージョンは壮大で、実に美しい。今夜の夢に、すぐにでも出てきそうな幻想の世界。金子兜太というと、なんとなく武骨で大振りな俳人と思っているムキもあるようだが、その見方はひどく一面的でしかない。彼の作品を初期から子細に見てくると、根底に一つあるのは、まごうかたなきリリシズムへの純粋な没頭だ。そこに誤解される要素があるとすれば、抒情のスケールが並外れて大きいことからだろう。ガラス細工じゃないということ。『早春展墓』(1974)所収。(清水哲男)




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