January 032000
賀状うづたかしかのひとよりは来ず
桂 信子
わかりますよね、この切なさ。ちょっと泣きたくなるような心持ち。三日になっても配達されないということは、もう来ないのだと諦めている。でも、念のために「うづたか」い年賀状の山から、二度三度と見返しているのだろう。たった一枚の紙切れながら、その人にとっては重要な意味を持つ賀状もある。「来ず」と断言してはみたものの、また明日からしばらくは、ドキドキしながら郵便受けをのぞきに出るのである。覚えは私にもあり、しかし来れば來たで簡単な文面の真意を探るべく、けっこう悩んだりするのだから罪な風習もあったものだ。かと思うと、久保より江にこういう句がある。「ねこに来る賀状や猫のくすしより」。「くすし」は「薬師・医」で、つまり猫のお医者さんだ。『吾輩は猫である』には「元朝早々主人の許へ一枚の絵葉書が来た」とあって、主人が描かれている動物の正体がわからず四苦八苦する図が出てくる。つまり、漱石の猫には主人を経由して賀状が届いたのだが、句の場合はストレートに配達されたわけだ。でも、こうして猫には大切な人からちゃんと来ているのに、人には来ないのかと思うと、よけいに掲句が切なく思えてくる。今からでも遅くはない。どこのどなたかは存じませんが、心当たりのある人は、すぐに作者に返事を出してあげなさい。『女身』(1955)所収。(清水哲男)
September 162012
宿の子をかりのひいきや草相撲
久保より江
秋祭りの季節です。先の日曜、みこし、おはやし、太鼓の音に誘われて、おかめやひょっとこの踊りを楽しみました。かつて、村社、郷社といわれた神社の境内には、今でも相撲の土俵があります。奈良時代、秋の宮廷行事であった相撲の節(すまいのせち)は、平安末期に廃れましたが、宮廷神事にあやかる力自慢の伝統は、全国津々浦々続いています。本日、両国国技館は、秋場所の中日。力士の顔ぶれがインターナショナルになった今でも、その様式は変わりません。西洋人は、力士のことをスモウ・レスラーと呼びます。確かに、相撲も格闘技の一種ですが、神事として奉納するという伝統もあります。相撲を文化としてとらえると、不可思議なことがたくさんありますが、それよりも、目の前でつく勝負は明快ですから、ひいきの力士の勝ち負けに、一喜一憂します。見物衆としては、東か西か、どちらかを応援した方が興が乗るので、掲句のように、旅の宿の子どもを、今日はひいきにして応援しよう、ということになります。相撲は確かに格闘技の一面がありますが、他の格闘技、たとえばプロレスやボクシング、K1、柔道などと違うところは、勝負がついた後、観客の多くが手をたたいたり、笑ったり、残念がったりしているところです。観客が笑う格闘技は、他にはなかなかないと思いますがいかがでしょう。なぜ、笑いが起きるのか。それは、巨体が土俵から転げ落ちるのが滑稽だからでしょう。物が落ちると人は笑うことがあり、日本ではこれを、落ち、というわけです。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)
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