賀状の消印。20日迄投函分はバツ。配達は遅いが郵便局指定分はマル。…消印評論家(笑)。




2000ソスN1ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0512000

 ひとびとよ池の氷の上に石

                           池田澄子

の水が凍っている。そこまでは何ごとの不思議なけれど、張った氷の上に石があるとなれば、不思議な驚きの世界となる。いずれ誰かが置いたものか、何かの加減で転がり落ちてきたものではあるだろう。だが、こんな光景に出くわしても、多くの人は不思議とも思わないに違いない。立ち止まることはおろか、感覚に不思議が反応しないので、何も気に止めずに通過してしまうだけである。そこでむしろその不思議さに作者は注目し、「ひとびとよ」と呼びかけてみたくなったのだ。実際、私たちが失って久しい感覚の一つは、物事に素直に驚くそれではなかろうか。少々のことでは驚かなくなっており、その「少々」の幅も拡大する一方だ。おそらくは、バーチャルな不思議世界に慣れ過ぎてしまった結果の「鈍感」なのだろう。でも、バーチャルな世界では、本当に不思議なことは何一つ起こらないのだ。そのことを踏まえて句を読み返すと、作者の目が新鮮な驚きに輝いていることがわかる。思わずも「ひとびとよ」と呼びかけたくなった気持ちも……。呼びかけられた一人としては、謙虚に自省せざるをえない。俳誌「花組」(2000年・冬号)所載。(清水哲男)


January 0412000

 買初にかふや七色唐辛子

                           石川桂郎

初(かいぞめ)は「初買」とも言い、新年になって初めて物を買うことだ。といっても、スーパーで醤油や味噌などを買うのとは違う。新年を寿ぐために、いささか遊び心の入った買い物をすることを指している。だから、いろいろと買うなかで、本年は「買初となすしろがねの干鰈」(岡本差知子)と思い決めたりする。句として公表するとなれば、おのずから作者のセンスが問われるわけだ。作者は「七色唐辛子」を「買初」とした。なかなかに小粋な選択ではないか。買初コンテストがあるとしたら、必ずベスト・テンには入りそうである。「とうんとうんと唐辛子、ひりりと辛いは山椒の実、すはすは辛いは胡椒の粉、けしの粉、陳皮の粉、とうんとうんと唐辛子の粉」と、これは江戸の町を歩いた振り売りの七色唐辛子屋の売り声だそうな。陳皮(ちんぴ)は蜜柑や柚子の皮。これだと五色しかない計算になるが、実際に五色しかなかったのか、あるいは売り声の調子を出すために二色が省かれているのか。ちなみに「七色唐辛子」は江戸東京の呼び方で、関西では「七味(しちみ)」と言う。日頃の私は「一味」党だけれど、買初に「一味」では、「一」はよくても色気が足りなさ過ぎる。今年の買初は、何にしようかな。(清水哲男)


January 0312000

 賀状うづたかしかのひとよりは来ず

                           桂 信子

かりますよね、この切なさ。ちょっと泣きたくなるような心持ち。三日になっても配達されないということは、もう来ないのだと諦めている。でも、念のために「うづたか」い年賀状の山から、二度三度と見返しているのだろう。たった一枚の紙切れながら、その人にとっては重要な意味を持つ賀状もある。「来ず」と断言してはみたものの、また明日からしばらくは、ドキドキしながら郵便受けをのぞきに出るのである。覚えは私にもあり、しかし来れば來たで簡単な文面の真意を探るべく、けっこう悩んだりするのだから罪な風習もあったものだ。かと思うと、久保より江にこういう句がある。「ねこに来る賀状や猫のくすしより」。「くすし」は「薬師・医」で、つまり猫のお医者さんだ。『吾輩は猫である』には「元朝早々主人の許へ一枚の絵葉書が来た」とあって、主人が描かれている動物の正体がわからず四苦八苦する図が出てくる。つまり、漱石の猫には主人を経由して賀状が届いたのだが、句の場合はストレートに配達されたわけだ。でも、こうして猫には大切な人からちゃんと来ているのに、人には来ないのかと思うと、よけいに掲句が切なく思えてくる。今からでも遅くはない。どこのどなたかは存じませんが、心当たりのある人は、すぐに作者に返事を出してあげなさい。『女身』(1955)所収。(清水哲男)




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