January 062000
吾が売りし切手をなめて春着の子
大林秋江
正月に着るために新調した晴れ着が「春着」。女性や子供の晴れ着について言うことが多い。郵便局に、ちょこちょこっと入ってきた春着の女の子。日頃、郵便局にはめったに子供はいないから、ましてや春着の子ともなれば目立つだろう。友だちに、年賀状の返事でも出すのだろうか。オクすることなく切手を求めると、これまたオクすることなく糊面をペロリとなめちゃったのだった。あれは何と言うのか、作者が糊面を湿らせるためのスポンジ容器を指さすひまもあらばこそ、である。「あら、まあ」と、読者には正月ならではの楽しい句だけれど、売った当人にペロリの図は、相手が子供でもちょっと引っ掛かるというところ。実は私もペロリ派で、一枚か二枚くらいのときはペロリとやってしまう。それに、なんとなくあのスポンジは頼り無い気もしたりして……。いつだったか、谷川俊太郎さんが「ボクも切手になりたいよ」と言ったことがある。「なぜですか」。「そりゃ、大勢の人にペロペロなめてもらえるからさ」。「……」。ということは、谷川さんもペロリ派なんだと、こちらには納得できたのだが。(清水哲男)
January 202013
九十年生きし春着の裾捌き
鈴木真砂女
春着は新春に着る晴れ着です。卆寿をこえても春着に袖を通す嬉しさは、若いころと変わりません。いや、若いとき以上にうきうきするのは、その粋な着こなしと裾捌(すそさば)きに円熟味を増してきたからでしょう。毎夜、銀座の酔客たちを小気味よく捌いてきた女将ですから、その立居振舞は舞踊のお師匠さんのように洗練されていたことでしょう。「裾捌き」という日本語は、今はもう、舞台と花柳界だけの言葉になってしまったのでしょうが、掲句のこれは、まぎれもなく真砂女の身のことば、身体言語です。あるいは、数学的比喩を使えば、「九十年生きし」は積分的で、「春着の裾捌き」は微分的です。積み重ねた日々を記憶している身体には、今日も巧みな身のこなしでたをやめぶりを舞っている、そんな老境の矜持があります。ただ、このような持続力は、日々目利きの観者たちの目にさらされていたから可能で、一方で、舞台の幕を引いたときには、「カーテンを二重に垂らし寝正月」という句もあり、オンとオフがはっきりしていたようです。以下蛇足。野田秀樹に『キル』という舞台作品があります。ジンギスカンが現代によみがえり、ファッションデザイナーとして世界を征服する(制服で征服する)というストーリーを初演は堤真一が、再演は妻夫木聡が演じています。『キル』というタイトルは、「切る・着る・kill・生きる」の掛詞になっていて、一方掲句では、「生き」「春着」「裾捌き」の「ki」が脚韻となり、句がステップを踏んでいます。『鈴木真砂女全句集』(2 010・角川学芸)所収。(小笠原高志)
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