東京あたりでは「松納」。月日は飛んでいく。せわしないなア。と言いながら、今宵は新年会。




2000ソスN1ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0712000

 今も師に遠く坐すなり新年会

                           風間ゆき

社の新年会か、同級会なのか。いずれにしても、先生という人を中心にした集いである。でも、新年会は無礼講ということで、席順はなし。どこに坐ってもよいのだが、やはりいつもとと同じように、先生からは遠く離れたところに坐ってしまう。昔からである。私にもそういうところがあるので、身に沁みる句だ。小学生の頃から、どうも先生という人が苦手で、なるべく離れるようにしてきた。敬遠だ。よく先生の手にぶら下がって甘えている女の子がいたけれど、私にしてみれば気が知れなかった。だから、こうした会合ではなくとも、先生がおられなくても、そんな気質が日常の場でひょこひょこと顔を出してくる。電車に乗るときなどもそうで、めったなことでは一番前の車両に乗ることはしない。いや、できない。いつも、一番後ろに乗る。自然と、そうなってしまっている。いわゆる「引っ込み思案」というヤツだ。昔の同級生からは「よく、そんな男にラジオの仕事が勤まるな」と言われるのだが、私に言わせれば、きっかけさえあれば「両極端は簡単に一致する」ということになる。あなたの場合は、どうでしょうか。(清水哲男)


January 0612000

 吾が売りし切手をなめて春着の子

                           大林秋江

月に着るために新調した晴れ着が「春着」。女性や子供の晴れ着について言うことが多い。郵便局に、ちょこちょこっと入ってきた春着の女の子。日頃、郵便局にはめったに子供はいないから、ましてや春着の子ともなれば目立つだろう。友だちに、年賀状の返事でも出すのだろうか。オクすることなく切手を求めると、これまたオクすることなく糊面をペロリとなめちゃったのだった。あれは何と言うのか、作者が糊面を湿らせるためのスポンジ容器を指さすひまもあらばこそ、である。「あら、まあ」と、読者には正月ならではの楽しい句だけれど、売った当人にペロリの図は、相手が子供でもちょっと引っ掛かるというところ。実は私もペロリ派で、一枚か二枚くらいのときはペロリとやってしまう。それに、なんとなくあのスポンジは頼り無い気もしたりして……。いつだったか、谷川俊太郎さんが「ボクも切手になりたいよ」と言ったことがある。「なぜですか」。「そりゃ、大勢の人にペロペロなめてもらえるからさ」。「……」。ということは、谷川さんもペロリ派なんだと、こちらには納得できたのだが。(清水哲男)


January 0512000

 ひとびとよ池の氷の上に石

                           池田澄子

の水が凍っている。そこまでは何ごとの不思議なけれど、張った氷の上に石があるとなれば、不思議な驚きの世界となる。いずれ誰かが置いたものか、何かの加減で転がり落ちてきたものではあるだろう。だが、こんな光景に出くわしても、多くの人は不思議とも思わないに違いない。立ち止まることはおろか、感覚に不思議が反応しないので、何も気に止めずに通過してしまうだけである。そこでむしろその不思議さに作者は注目し、「ひとびとよ」と呼びかけてみたくなったのだ。実際、私たちが失って久しい感覚の一つは、物事に素直に驚くそれではなかろうか。少々のことでは驚かなくなっており、その「少々」の幅も拡大する一方だ。おそらくは、バーチャルな不思議世界に慣れ過ぎてしまった結果の「鈍感」なのだろう。でも、バーチャルな世界では、本当に不思議なことは何一つ起こらないのだ。そのことを踏まえて句を読み返すと、作者の目が新鮮な驚きに輝いていることがわかる。思わずも「ひとびとよ」と呼びかけたくなった気持ちも……。呼びかけられた一人としては、謙虚に自省せざるをえない。俳誌「花組」(2000年・冬号)所載。(清水哲男)




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