某誌のために詩を書く日。俳句に一所懸命になっていると書き方を忘れてしまう。どうしよう。




2000ソスN1ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0812000

 凧の空女は男のために死ぬ

                           寺田京子

臘から、この句を反芻しては解釈に呻吟してきた。わかりやすいようでいて、わかりにくい。作者が、凧揚げの空を見ているところまではわかる。奴凧、武者絵凧、あるいは「龍」の文字凧など。揚げているのはほとんどが男たちだから、「凧の空」は男の世界だ。でも、なぜ「女は男のために死ぬ」という発想につながるのだろうか。もつれた凧糸をほどくように時間をかけてみても、根拠はよくわからない。私の乏しいデータによると、作者は十代で死も覚悟せざるをえない胸部の病におかされたという。したがって「死」の意識はいつも実際に身近にあったわけで、たとえば演歌のように演技的に発想しているのではないことだけは確かだろう。だが、なぜ「男のために」なのか。十日間ほど考えているうちに得た一応の結論は、ふっと作者が漏らした吐息のような句ではないかということだった。字面から受ける四角四面の意味などはなく、ふっとそう感じたということ。男社会を批判しているのでもなく、ましてや男に殉じることを認めているのでもなく、そうした社会意識からは遠く離れて、ふっと生まれた感覚に殉じた一句。試験の答案としては零点だろうけれど、人は理詰めでは生きていないのだから、こういう読み方があってもいいのかなと、おっかなびっくりの鑑賞でした。『鷲の巣』(1975)所収。(清水哲男)


January 0712000

 今も師に遠く坐すなり新年会

                           風間ゆき

社の新年会か、同級会なのか。いずれにしても、先生という人を中心にした集いである。でも、新年会は無礼講ということで、席順はなし。どこに坐ってもよいのだが、やはりいつもとと同じように、先生からは遠く離れたところに坐ってしまう。昔からである。私にもそういうところがあるので、身に沁みる句だ。小学生の頃から、どうも先生という人が苦手で、なるべく離れるようにしてきた。敬遠だ。よく先生の手にぶら下がって甘えている女の子がいたけれど、私にしてみれば気が知れなかった。だから、こうした会合ではなくとも、先生がおられなくても、そんな気質が日常の場でひょこひょこと顔を出してくる。電車に乗るときなどもそうで、めったなことでは一番前の車両に乗ることはしない。いや、できない。いつも、一番後ろに乗る。自然と、そうなってしまっている。いわゆる「引っ込み思案」というヤツだ。昔の同級生からは「よく、そんな男にラジオの仕事が勤まるな」と言われるのだが、私に言わせれば、きっかけさえあれば「両極端は簡単に一致する」ということになる。あなたの場合は、どうでしょうか。(清水哲男)


January 0612000

 吾が売りし切手をなめて春着の子

                           大林秋江

月に着るために新調した晴れ着が「春着」。女性や子供の晴れ着について言うことが多い。郵便局に、ちょこちょこっと入ってきた春着の女の子。日頃、郵便局にはめったに子供はいないから、ましてや春着の子ともなれば目立つだろう。友だちに、年賀状の返事でも出すのだろうか。オクすることなく切手を求めると、これまたオクすることなく糊面をペロリとなめちゃったのだった。あれは何と言うのか、作者が糊面を湿らせるためのスポンジ容器を指さすひまもあらばこそ、である。「あら、まあ」と、読者には正月ならではの楽しい句だけれど、売った当人にペロリの図は、相手が子供でもちょっと引っ掛かるというところ。実は私もペロリ派で、一枚か二枚くらいのときはペロリとやってしまう。それに、なんとなくあのスポンジは頼り無い気もしたりして……。いつだったか、谷川俊太郎さんが「ボクも切手になりたいよ」と言ったことがある。「なぜですか」。「そりゃ、大勢の人にペロペロなめてもらえるからさ」。「……」。ということは、谷川さんもペロリ派なんだと、こちらには納得できたのだが。(清水哲男)




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