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January 0912000

 暖炉列車 津軽まるごと暖める

                           野宮素外

炉列車は、客室内でストーブを焚いて走る列車のこと。燃料は石炭だ。かつての雪国ではお馴染みだったストーブ列車も、暖房システムが変化した結果、現在では青森県の「津軽鉄道」にしか残っていない。毎年十一月十六日から三月十五日まで、津軽五所川原と津軽中里間の二往復だけを走っている。はっきり言って、観光客用だ。……と、これらの知識とこの句とは、発売中の「アサヒグラフ」(2000年1月14日号)に載っている宮本貢さんのレポートから仕入れた。暖冬の東京で冒頭の大きな見開き写真を見ていると、外国の風景のようにも見えてきてしまう。団体客が入ると二両から三両編成になるというが、撮影日は大雪だったので、たった一両で走っている。この写真が、実に良い。列車の姿は小さくて消え入りそうに頼りないのだけれど、乗車している人はみな句のような心持ちになっている。そういうことが、写真を見ているとよく伝わってくる。「津軽まるごと暖める」は、大袈裟ではなく、ごく自然な発想だということが納得される。句は乗客から募集したものだというが、作者の名前から推察してズブの素人ではあるまい。一字空きになっているのは、漢字の詰め合わせを嫌ったためだろう。(清水哲男)


January 2612000

 刀剣の切っ先ならぶ弱暖房

                           川嶋隆史

く感じられる「名刀展」の会場だ。なぜ「弱暖房」なのか。わかる人にはわかる句だが、ただし、わかる人には逆に面白くない句かもしれない。もちろん、ここに掲載したのにはワケがある。作者は、ほぼ私と同年齢のようだ。同世代の人が「刀剣」に関心を抱き、句にまで仕立て上げたことに、それこそ私の関心が動いたからである。恥を話せば、私は京都の大学で美学美術史を専攻し、貴重な刀剣をヤマほど見る機会があったにもかかわらず、怠惰にやり過ごしていた学生であった。実際に刀剣に触れたのは、たった一度きり。それも、遊びに行った後輩の実家でだった。彼は何振りも切っ先を揃えるかたちで抜いて見せてくれ、「触ってみてください。でも、息を吹きかけないようにお願いします」と言った。すなわち、それだけ微妙な反応をする刃物なのである。したがって「弱暖房」にも、うなずいていただけるだろう。息を詰めて持たせてもらった第一印象は、とにかく重いということであり、しかし、手にした刀身をじっと見つめていると、吸い寄せられるような霊気を感じたことも覚えている。世に名刀妖刀の類は多いようだが、あれは手に持ってみてはじめて真価がわかるというものだ。……と、そのときから信じ込んでいる。偶然にこの句に触れたことで、そんなことを思い出した。作者も、きっと手にしたことのある人だろう。句は、言外にそのことを言おうとしているのだと思った。俳誌「朱夏」(28号・1999年12月)所載。(清水哲男)


November 13112003

 米犇きたちまち狭し暖房車

                           高島 茂

語は「暖房」で、もちろん冬。昨日の句と同じように、戦後の混乱期の作である。なぜ「暖房車」で「米(こめ)」が「犇(ひしめ)く」のか。今となっては、当時の世相などを含めた若干の解説が必要だろう。この句を目にしたときに、私はすぐに天野忠の詩「米」を思い出した。そして、久しぶりに詩集を取りだして読んでみた。天野さんにしては、珍しく社会への怒りをストレートにぶつけている。何度読んでも粛然とさせられ、感動する詩だ。今日は私が下手な解説を書きつけるよりも、この詩にすべてをまかせることにしたい。詩人が怒っているのは、列車内に踏み込んでヤミ米を摘発していった官憲に対してである。「/」は改行を、「//」は改連を示す。「この/雨に濡れた鉄道線路に/散らばった米を拾ってくれたまえ/これはバクダンといわれて/汽車の窓から駅近くになって放り出された米袋だ//その米袋からこぼれ出た米だ/このレールの上に レールの傍に/雨に打たれ 散らばった米を拾ってくれたまえ/そしてさっき汽車の外へ 荒々しく/曳かれていったかつぎやの女を連れてきてくれたまえ//どうして夫が戦争に引き出され 殺され/どうして貯えもなく残された子供らを育て/どうして命をつないできたかを たずねてくれたまえ/そしてその子供らは/こんな白い米を腹一杯喰ったことがあったかどうかを/たずねてくれたまえ/自分に恥じないしずかな言葉でたずねてくれたまえ/雨と泥の中でじっとひかっている/このむざんに散らばったものは/愚直で貧乏な日本の百姓の辛抱がこしらえた米だ//この美しい米を拾ってくれたまえ/何も云わず/一粒ずつ拾ってくれたまえ」。……むろん掲句の犇く米も、無事に人の口に入ったかどうかはわからない。不幸な時代だった。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


December 03122003

 暖房や生徒の眠り浅からず

                           村上沙央

つらうつら、こっくりこっくり、なんてものじゃない。机に俯せて気持ちよさそうに、もう完全に眠っている。こうなると、下手に起こしては可哀想だと思えてくるから不思議だ。作者は、微笑しつつ見て見ぬふりをしたのだろう。実際、ほど良く暖房がきいた教室での眠りは気持ちが良い。教師の声が、まるで子守歌のように聞こえてくる。私の高校時代は、スチーム式の暖房だった。あのまろやかな暖かさは、疲れている生徒にはたまらない。眠れ眠れと、催眠術をかけられているようなものである。教師の声のトーンが一定で単調であればあるほど、術はよく効く。声の催眠性といえば、自分の声のせいで自分が眠くなることがある。そんな馬鹿なと思われるかもしれないが、しばしば私は、ラジオのスタジオで経験した。生放送中に、どうしようもなく眠くなってくるのだ。ゲストがいるときにはまさか眠りはしないが、ひとりで長時間放送していると、自分の声が子守歌みたいになってくる。ひとりのときは、声がモノトーンにならざるを得ないので、余計にそう聞こえるらしい。それに普通の場所で話すのとは違い、スタジオではイヤホーンをつけて自分の声を自分で聞かされているわけだから、そのせいもある。冬のスタジオは暖かいし、静かこの上ない空間だし、ひとたび眠くなってくると回復するのが大変だ。首をまわしてみたり背伸びをしてみたりする程度では、立ち直れない。そんなわけで、短い時間ながら、半分以上は自分で何を言っているのか定かではない放送をしたこともあった。私だけかと思って聞いてみると、アナウンサーの何人かが、眠りつつしゃべった経験があると言った。ほっとした。『俳句歳時記・冬』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


December 29122014

 暖房の室外機の上灰皿置く

                           榮 猿丸

煙家ならば、誰もがうなずける句だろう。いまではたいていの室内が禁煙だから、吸いたいときには室外に出ざるを得ない。句は、オフィスの室外だろうか。寒風の吹くなか、震えながらの喫煙となるが、灰皿を持って出ても、適当な置き場所もないので手近の室外機の上に置いている。そもそも室外機の上に物を置く行為がなんとなく後ろめたいうえに、そんなことまでして煙草を吸う惨めさが身にしみてきて、およそゆったりとした気分にはなれない。だが、それでも吸いたいのが煙草好きの性なのだ。味わうなんてものじゃなく、とにかく煙を吸ったり吐いたりする行為にこそ、意味があるわけだ。どんな職場にもそうした男たちが何人かは存在する。仕事ではウマが合わなくても、こういう場所では同志的連帯感がわいてくる。これからの季節、しばらくはこんな情景があちこちで見られるだろう。喫煙者以外には、わかりにくい句かもしれない。『点滅』(2013)所収。(清水哲男)




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