日経連が雇用の維持と引き換えに賃金引き下げと。去年も言った。労組もはっきり物を言え。




2000ソスN1ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1312000

 ふるさとは風の中なる寒椿

                           入船亭扇橋

木忠栄個人誌「いちばん寒い場所」(30号・1999年12月刊)で知った句だ。「品のいい職人さんが羽織を着て、そのまんま出てきたような涼しい姿」とは、落語好きの八木君の扇橋(九代目)評。扇橋の俳号は「光石」で、高校時代には水原秋桜子「馬酔木」の例会に出ていたというから、筋金入りだ。この人の故郷は知らないが、望郷の一句だと思われる。故郷を思い出し、その姿を彷彿させるというときに、人はディテールにこだわるか、逆に細々した具体物を捨ててしまう。句は後者の例で、故郷は「風の中なる寒椿」の自然に代表され、人間の匂いは捨象されている。このことから読者は、詠まれている「ふるさと」の寒々とした風景にリリカルに出会い、次には自身の故郷の冬のありようへと心が移っていく。望郷の念やみがたくというのでもなく、時に人は季節に照応して、このように故郷を偲ぶ。道具立ての揃った「うさぎ追いしかの山……」の唱歌よりも、モノクロームの世界にぽちりと紅い椿を置いてみせたこの句のほうが鮮やかなのは、俳句的抽象化の力によるものだろう。大人の句だ。(清水哲男)


January 1212000

 穴あらば落ちて遊ばん冬日向

                           中尾寿美子

に落ちたことで、世界的に有名になったのは「不思議の国のアリス」だ。日本で知られているのは、昔話「おむすびころりん」に出てくるおじいさん。穴に落ちたことでは同じだけれど、両者の心持ちにはかなりの違いがあるようだ。アリスの場合には「不本意」という思いが濃く、おじいさんの「不本意」性は薄い。アリスは不本意なので、なにかと落ちたところと現世とを比べるから、そこが「不思議の国」と見えてしまう。一方、おじいさんはさして現世を気にするふしもなく、暢気にご馳走を食べたりしている。この句を読んで、そんなことに思いが至った。作者もまた、現世のあれこれを気にかけていない。一言でいえば、年齢の差なのだ。このときに、作者は七十代。「穴掘れば穴にあつまる冬の暮」という句も別にあって、「穴」への注目は、ごく自然に「墓穴」へのそれに通じていると読める。ひるがえって私自身は、どうだろうか。まだ、とてもこの心境には到達していないが、わかる気はしてきている。そういう年齢ということだろう。遺句集『新座』(1991)所収。(清水哲男)


January 1112000

 寒晴やあはれ舞妓の背の高き

                           飯島晴子

晴。寒中のよく晴れた日。季語のようであるが、これは作者の発明。歳時記での季語は「寒」である。さて、またしても厄介な「あはれ」だ。すらりと背の高い現代娘の舞妓ぶりを見て、「あはれ」と反応しているわけだが、どういう種類の「あはれ」なのだろう。それこそ「すらり」と読んで受けた印象では、どこか危なっかしい美しさに「あはれ」を当てたように思われる。たとえて言えば、寒中に豪奢な芍薬の花を見た感じか。確かに美しいけれど、季節外れだし、いささか丈もありすぎる。伝統美からは背丈ばかりではなく、立ち居振る舞いにおいてもどこか逸脱している。危なっかしい。したがって、美しくも、そして切なくも「哀れ」なのだろう。実は、この句の「中七下五」は秋にできたものだと、講談社『新日本大歳時記』で作者が作句過程の種明かしをしている。大阪のホテルで開かれた出版記念会に、祇園から手伝いに来ていた舞妓を見ての印象だという。「『寒晴』にたどりつくまでパズルのピースを何度入れ替えたことか。季語は、季語以外の部分と同時に絡まるように出てくるのが理想的である。あとからつけて成功するには苦労する。意地で『寒晴』まで辛抱したというところである」。意地を張った甲斐はあり、どんぴしゃりと決まった。『寒晴』(1990)所収。(清水哲男)




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