辻征夫さんが亡くなりました。当ページにも縁の深い詩人でした。愕然として、涙も出ない。




2000ソスN1ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1512000

 春巻きを揚げぬ暗黒冬を越え

                           摂津幸彦

者には「暗黒の黒まじるなり蜆汁」を含む「暗黒連作」があり、これは最後に置かれた句。引用句からもわかるように、ここで「暗黒」は単に暗闇の状態を言う言葉ではなく、物質化した実体のように扱われている。「暗黒と鶏をあひ挽く昼餉かな」では、そのことが一層はっきりする。「暗黒」は、いわば暗闇のお化けなのだ。したがって「冬を越え」の主語は「暗黒」という実体である。軽い意味ではようやく暗い冬の季節が終わりに近づいた安らぎの気持ち、重い意味では自身の内面の暗闇が晴れようとしている安堵に向かう感情。それらの心持ちが、春巻きを揚げる行為のうちにというよりも、「春巻き」という陽性な名前を持つ食べ物があることに気がついたことのなかに込められている。春巻きを揚げている厨房の窓から、すうっと「暗黒」が冬山の向こうへと遠ざかっていくのが見えるような、そんな実体感を伴う句だ。でも、句への発想はふとした思いつきからでしかない。言葉遊びの世界。下手をすれば安手で読めたものではない作品になるところを、徳俵に足をかけ、作者はぐっと踏みこたえている。この踏みこたえぶりこそが、いつだって摂津幸彦の技の見せ所であった。『姉にアネモネ』(1973)所収。(清水哲男)


January 1412000

 一畳の電気カーペットに二人

                           大野朱香

か暖かそうな句はないかと探していたら、この句に行き当たった。侘びしくも色っぽい暖かさだ。その昔に流行した歌「神田川」の世界を想起させる。あの二人が風呂屋から戻ると、アパートではこういう世界が待っているような……。小さな電気カーペットだから、二人で常用するには狭すぎる。日ごろは女の領分である。そこに、すっとさりげなく男が入ってきた。そんな暖かさ。このとき、男はわざわざ暖をとりに入ってきたのではあるまい。そこがまた、作者には暖かいのだ。それでよいのである。従来のカーペット(絨緞・絨毯)だと、こういう世界は現出しようもない。生活のための新しい道具が、新しいドラマを生んだ好例だろう。俳句は、作者が読者に「思い当たらせる」文学だ。その手段の最たるものは季語の使用であるが、その季語も時代とともにうつろっていく。「絨毯(じゅうたん)」でいえば、柴田白葉女に「絨毯の美女とばらの絵ひるまず踏む」がある。この句のよさは、本当は踏む前に一瞬「ひるんだ」ところにあるのだけれど、若い読者に理解されるかどうか。電気カーペットと同じくらいに、絨毯の存在も身近になってしまった。『21世紀俳句ガイダンス』(1997)所載。(清水哲男)


January 1312000

 ふるさとは風の中なる寒椿

                           入船亭扇橋

木忠栄個人誌「いちばん寒い場所」(30号・1999年12月刊)で知った句だ。「品のいい職人さんが羽織を着て、そのまんま出てきたような涼しい姿」とは、落語好きの八木君の扇橋(九代目)評。扇橋の俳号は「光石」で、高校時代には水原秋桜子「馬酔木」の例会に出ていたというから、筋金入りだ。この人の故郷は知らないが、望郷の一句だと思われる。故郷を思い出し、その姿を彷彿させるというときに、人はディテールにこだわるか、逆に細々した具体物を捨ててしまう。句は後者の例で、故郷は「風の中なる寒椿」の自然に代表され、人間の匂いは捨象されている。このことから読者は、詠まれている「ふるさと」の寒々とした風景にリリカルに出会い、次には自身の故郷の冬のありようへと心が移っていく。望郷の念やみがたくというのでもなく、時に人は季節に照応して、このように故郷を偲ぶ。道具立ての揃った「うさぎ追いしかの山……」の唱歌よりも、モノクロームの世界にぽちりと紅い椿を置いてみせたこの句のほうが鮮やかなのは、俳句的抽象化の力によるものだろう。大人の句だ。(清水哲男)




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