豢・逕ー縺薙ョ縺ソ縺ョ句

January 2012000

 缶コーヒー膝にはさんで山眠る

                           津田このみ

語「山眠る」は、静かに眠っているような雰囲気の山の擬人化。そう聞かされて「なるほどねえ」と思い、思っただけで納得して、もしかすると一生を過ごしてしまうのが、私のような凡人である。でも、世の中にはそんな説明だけでは納得せずに、「だったら、どんなふうに眠っているのだろう」と好奇心を発揮する変人(失礼っ)もいる。古くは京都の東山のことを蒲団を着て寝ているようだと言った人からはじまって、現代の津田このみにいたるまで、自分の感覚で実証的にとらえないと気が済まない人たちだ。もちろん、こういう人たちがいてくれるおかけで、我ら凡人(これまた、読者には失礼か)の感受性は広く深くなってきたのである。感謝しなければ罰があたる。缶コーヒーを膝に挟むのは、ずっと手に持っているととても熱いからだ。最近の若者は地べたに座りこんで飲んだりするから、熱いととりあえず膝に挟むしかない。そんな「ヂベタリアン」の恰好で、山が眠っているというのだ。すなわち、安眠をしていてるとは言えない山を詠んだのが、この句の面白さ。何かの拍子にこの山の膝から缶が転げ落ちたら、この世は谷岡ヤスジ流に「全国的にハルーッ」となるのである。はやく転げ落ちろ。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)


October 23102000

 階段は二段飛ばしでいわし雲

                           津田このみ

気晴朗、気分爽快、好日だ。だだっと階段を、二段飛ばしで駆け上がる。句には、その勢いが出ていて気持ちがよい。女性の二段飛ばしを見たことはないが、やっぱりやる人はやっているのか(笑)。駅の階段だろう。駆け上がっていったホームからは、見事な「いわし雲」が望めた。若さに溢れた佳句である。私も若いころは、しょっちゅう二段飛ばしだった。山の子だったので、勾配には慣れていた。しかし、今はもういけません。目的の電車が入ってくるアナウンスが聞こえても、えっちらおっちら状態。ゆっくり上っても、階段が長いと息が切れる。それこそ二段飛ばしで駆け上がる若者たちに追い抜かれながら、「一台遅らすか」なんてつぶやいている。追い抜かれる瞬間には、若者がまぶしく写る。嫉妬ではなく、若さと元気が羨ましくてまぶしいのだ。ところで、サラリーマン時代の同僚が、二段飛ばしで駆け降りた。仙台駅で東京に帰るための特急に乗ろうとして、時間がなかったらしい。慌てて駆け降りているうちに転倒して頭の骨を折り、即死だった。三十歳になっていただろうか。まだ十分に若かった。そして、若い奥さんと赤ん坊が残された。駆け上がりはまだしも、駆け下りは危険だ。ご用心。掲句を見つけたときに、ふっと彼の人なつこい笑顔を思い出したりもした。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)


January 0812002

 冬の雨花屋の全身呼吸かな

                           津田このみ

じ程度の降りなら、雪よりも「冬の雨」のほうが、実際の気温とは裏腹に寒く冷たく感じられる。暗くて陰鬱だ。『四季の雨』(作詞者作曲者ともに不詳)という文部省唱歌があって、歌い出しは「聞くだに寒き冬の雨……」と、まず寒いイメージが強調されている。そんな雨のなかを身をちぢめて歩いているうちに、「花屋」の前に出た。ぱっと明るい春の花屋に比べれば、冬の花屋の色彩はさすがにバリエーションに乏しい。乏しいけれど、店の花々はこの冷たい雨を受け入れ、「全身」ですこやかに「呼吸」しているように見えた。ひっそりと、しかし確実に充実した時間のなかにある花々に、作者は静かな感動を覚えたのである。花屋を色彩的にスケッチした句はよくあるが、掲句は花々の生理に就いて詠んでおり出色だ。他の季節とは違う「冬の雨」ならではの句景である。ちなみに『四季の雨』のそれぞれの季節は、次のように歌い出されている。「降るとも見えじ春の雨……」「俄(にわ)かに過ぐる夏の雨……」「おりおりそそぐ秋の雨……」。メロディーが、また素晴らしく美しい。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)


May 1352003

 昂然と仏蘭西日傘ひらきけり

                           櫂未知子

まどきの男は「日傘」はささない(昔の関西では、中年以上の男もよくさしていた)ので、「ひらきけり」の主体は女性だ。ところで、開いたのは作者自身だろうか、それとも目の前の相手だろうか。ふつう「昂然と」は他者に用いる言葉だと思うけれど、この句では自分の気分に使われたと読むのも面白い。なにしろそこらへんの日傘とは違って、「仏蘭西(フランス)」製なんだもんね。周囲に人がいるかいないかに関わらず、これみよがしにさっと開く気持ちには、昂然たるものがあるだろう。いざ出陣という気分。これが目の前の相手が開いたとすると、どこか尊大に見えてイヤ〜な感じ……。どちらだろうか。いずれにしても、人が日ごろ持ち歩くものには、単なるツールを越えた意味合いが付加されている。愛着もあるしお守り的な意味があったり、むろん見栄を含む場合もある。掲句の主体が誰であるにしても、言わんとすることはそういうことだろう。日傘は、単に陽射しを遮れはいいってものじゃないんだ。掲句を読んですぐに思い出したのが、津田このみの一句だった。「折り合いをつけにゆく日やまず日傘」。これも良い句だ。この日傘もツールを越えて、防御用か攻撃用か、とにかく作者はほとんど武器に近い意味合いを含ませている。男で思いつく例だと、ニュースキャスターの久米宏がいつも持っているボールペン(かな?)がそうだ。彼はあれでメモをとるわけじゃない。そんな場面は一度も見たことがないし、そんな必要もない。でも、片時も手放さないのは、彼にはきっとお守りか武器の意味合いがあるからなのだろう。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)


March 2232004

 春愁を四角に詰めて電車かな

                           津田このみ

今の鳥インフルエンザ騒動の映像で、ぎゅう詰めにされて飼われている鶏たちを見て、哀れと思った人は少なくないだろう。では、人間は彼らよりも哀れではないのかといえば、そうはいかない。ここに心ある鶏がいるとして、満員電車にぎゅう詰めになった人間どもを眺めたとすれば、やはり同じように哀れをもよおすはずである。しかも現在の養鶏法の歴史はたかだか半世紀なのであり、満員電車のそれよりもはるかに短いのだ。ぎゅう詰めの歴史は、人間のほうがだんぜん先行してきた。電車を開発した目的は、いちどきに大勢の人間の労働力を一定の場所に集結することにあった。べつに、観光や物見遊山などのために作った乗り物ではない。それは現今の鶏舎と同じように、ひたすら生産効率のアップに資するための設備なのである。だから電車にとっては、どんな人間もみな同価値なのであって、乗っている人間個々の思想信条や才能才質、感性感情などには頓着することはない。とにかく、つつがなく大量の労働力をA地点からB地点まで運ぶことによって、役割と任務はめでたく完了する理屈だ。掲句は、そんな電車の論理を踏まえたうえで、人間を労働とはまた別の視点から捉えて詠んでいる。「春愁」というつかみどころのない個々人ばらばらな心情を、電車がまとめて「四角に詰めて」走っている姿は、当の電車のあずかり知らぬところだから、句に可笑しみが感じられるのだ。朝夕と、今日も満員電車は元気に走りつづけるだろう。その満員電車に乗り込んで、この句を思い出す人がいるとすれば、句にとっては最良の環境で最良の読者を得たことになるのだと思う。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)




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