十数秒ほどの遊び。このページ(読心術)の仕掛けがわかりますか。深く追及して腹を立てないように。




2000ソスN1ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2112000

 うつくしき日和となりぬ雪のうへ

                           炭 太祇

国というほどではないけれど、でも、一冬に一度か二度は深い雪のために学校が休みになった。そんな土地で育ったから、この句の味わいはよくわかる。降雪の後の晴天の景色は、たしかに「うつくしき」としか言いようがない。目を開けていられないほどの眩しさ。うかつに軒下などに立っていると、ドサリと雪が落ちてきたり……。そんななかを登校するのは、楽しかった。一里の道のりなど、苦にならなかった。多田道太郎さんの新著『新選俳句歳時記』(潮出版社)に、この句が引かれている。「『うつくしきひより』とはいいことばだな。『うつくしい』『ひより』って忘れられた良い日本語」と書かれている。多田さん、同感です。「うつくしい」は「きれい」とは違いますからね。私が学生時代を過ごしたころの京都では、まだ「うつくしい」という言葉が日常的に生きて使われていた。とくに女性たちは、よく使っていた。「きれい」というとんがった言葉では表現できない「うつくしさ」が、当の女性たちにも備わっていた。いまでも使っている「京女」はいるだろうか。いるような気はする。(清水哲男)


January 2012000

 缶コーヒー膝にはさんで山眠る

                           津田このみ

語「山眠る」は、静かに眠っているような雰囲気の山の擬人化。そう聞かされて「なるほどねえ」と思い、思っただけで納得して、もしかすると一生を過ごしてしまうのが、私のような凡人である。でも、世の中にはそんな説明だけでは納得せずに、「だったら、どんなふうに眠っているのだろう」と好奇心を発揮する変人(失礼っ)もいる。古くは京都の東山のことを蒲団を着て寝ているようだと言った人からはじまって、現代の津田このみにいたるまで、自分の感覚で実証的にとらえないと気が済まない人たちだ。もちろん、こういう人たちがいてくれるおかけで、我ら凡人(これまた、読者には失礼か)の感受性は広く深くなってきたのである。感謝しなければ罰があたる。缶コーヒーを膝に挟むのは、ずっと手に持っているととても熱いからだ。最近の若者は地べたに座りこんで飲んだりするから、熱いととりあえず膝に挟むしかない。そんな「ヂベタリアン」の恰好で、山が眠っているというのだ。すなわち、安眠をしていてるとは言えない山を詠んだのが、この句の面白さ。何かの拍子にこの山の膝から缶が転げ落ちたら、この世は谷岡ヤスジ流に「全国的にハルーッ」となるのである。はやく転げ落ちろ。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)


January 1912000

 強運の女と言はれ茎漬くる

                           波多野爽波

語は「茎漬(くきづけ)」で冬。大根や蕪の茎や葉を樽に入れ、塩を加えて漬けるだけの簡単な漬物だ。食卓に上がると、その酸味がいっそうの食欲をそそる。じわりとした可笑しみのある句。主婦が茎を漬けているにすぎない写生句だが、わざわざ主婦を「強運の女」としたところが、爽波一流の物言いだ。つまり、わざわざ「強運の女」を持ち出すこともないのに、あえて言ってしまう。そうすると、平凡な場面にパッと光が差す。日常が面白く見える。いつもこんなふうに日常を見ることができたら、さぞや楽しいでしょうね。そして重要なのは、作者が「強運の女」を揶揄しているのでもなければ皮肉を言っているのでもない点だ。ここには、そんな底意地の悪さなど微塵もない。むしろ、たいした「強運」にも恵まれていない女に、「それでいいのさ」と微笑している。爽波は「写生の世界は自由闊達の世界である」と書いているが、その「自由闊達」は決して下品に落ちることがなかった。ここが凄いところ。余人には、なかなか真似のできない句境である。花神コレクション『波多野爽波』(1992)所収。(清水哲男)




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