ひさしぶりに電車に乗ったら、Outlookの悪口を言ってる奴がいた。電車も勉強になりますね。




2000ソスN1ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2312000

 おそく来て若者一人さくら鍋

                           深見けん二

の色が桜のそれに似ているので、いつのころからか「さくら」は馬肉の異称となった。寿司屋の符丁で、蝦蛄(しゃこ)を「ガレージ」と言うがごとし。ただし、このような半可通の下手な洒落を私は好まない。地下鉄丸ノ内線「新宿御苑」駅の裏手出口のそばに、「さくら鍋」を出す店がある。味噌仕立てではなく、鋤焼(すきやき)風に焼いて食べさせる。ここに仲間と、年に一度か二度あつまる。その都度、誰かの記念日であったり厄落としであったりするのだけれど、ま、みんなで飲む口実さえあればよいというわけ。句の場合も同じような集いであろうが、一人の若者がかなり遅れて来た。必ず来ることになっていたので、一人前だけ別にとってあった。それを、シラフの若者が黙々と食べている図である。なんということもないのだが、みんなが一度食べ終えた鉄の鍋で、桜色の馬肉を焼いている様子は、若者だけに侘びしいものがある。本来の若い血気が、しょんぼりしている。やっぱり、鍋はみんなでわいわいにぎやかに食ってこそ美味いのだ。それを、一人で食べている。よんどころない事情からだろうが、すまなそうな顔をしている。もうすぐ、会はお開きだ。いや、店との約束の時間はもう過ぎているようだ。「ちゃんと食えよ」。思いつつも、しかし作者ははらはらしている。『雪の花』(1977)所収。(清水哲男)


January 2212000

 ひとの部屋見廻してゐる炬燵かな

                           岡本高明

れぞ「思い当たらせる」句表現の代表格だ。読者の誰もが、思い当たるだろう。他家の部屋に通されて、炬燵(こたつ)をすすめられる。そこに座るまではよいのだが、その後で、誰もがなんとなく部屋を見廻してしまう。あれは、別に何を見ようとするわけではない。所在なく、とも一寸ちがう。なんとなく、なのだ。ほとんど、この行為は無意味かと思われる。深く考えたことはないけれど、ここで強いて言うならば、あれは人が新しい環境に適合するための本能的な行為なのかもしれない。周囲のありようと、できるだけ早くバランスをとるための準備というわけだ。編集者時代、劇作家の飯島匡さんのお宅にお邪魔したことがある。書斎での写真撮影を申し込んだところ、言下に断られた。「親しい友人でも、書斎には通さないことにしてるから……。なぜボクの書棚に『手紙の書き方』なんて本があるのかと、そう思われるだけでイヤなんだよ」。「なるほどねえ」と、私は心のうちで大いに思い当たった。カメラマンと一緒に通された飯島さんの応接間には、あらためて見廻してみると、たしかに見事に何もなかった。「俳句界」(2000年1月号)所載。(清水哲男)


January 2112000

 うつくしき日和となりぬ雪のうへ

                           炭 太祇

国というほどではないけれど、でも、一冬に一度か二度は深い雪のために学校が休みになった。そんな土地で育ったから、この句の味わいはよくわかる。降雪の後の晴天の景色は、たしかに「うつくしき」としか言いようがない。目を開けていられないほどの眩しさ。うかつに軒下などに立っていると、ドサリと雪が落ちてきたり……。そんななかを登校するのは、楽しかった。一里の道のりなど、苦にならなかった。多田道太郎さんの新著『新選俳句歳時記』(潮出版社)に、この句が引かれている。「『うつくしきひより』とはいいことばだな。『うつくしい』『ひより』って忘れられた良い日本語」と書かれている。多田さん、同感です。「うつくしい」は「きれい」とは違いますからね。私が学生時代を過ごしたころの京都では、まだ「うつくしい」という言葉が日常的に生きて使われていた。とくに女性たちは、よく使っていた。「きれい」というとんがった言葉では表現できない「うつくしさ」が、当の女性たちにも備わっていた。いまでも使っている「京女」はいるだろうか。いるような気はする。(清水哲男)




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