出版不況のなかで近鉄百貨店(吉祥寺)が書籍売り場を設けるらしい。世の中、よくわからん。




2000ソスN1ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2412000

 日脚伸ぶ夕空紺をとりもどし

                           皆吉爽雨

なみに、今日の東京の日没時刻は16時59分。冬至のころよりは30分近く、夕刻の「日脚」が伸びてきた。これからは、少しずつ太陽の位置が高くなって、家の奥までさしこんでいた日光が後退していく。それにつれて、今度は夕空の色が徐々に明るくなり「紺」を取り戻すのである。この季節に夕空を仰ぐと、ひさしぶりの紺色に、とても懐しいような感懐を覚える。「日脚伸ぶ」という季語を、空の色の変化に反射させたセンスは鋭い。まさに「春近し」の感が、色彩として鮮やかに表出されている。私などは、本当の春よりも、新しい季節が近づいてくるこうした予感のほうに親しみを覚える。単なるセンチメンタリストなのかもしれないが、たまさか「よくぞ日本に生まれけり」と思うのは、たいていが移ろいの季節にあるときだ。一方、病弱だった日野草城には「日脚伸びいのちも伸ぶるごとくなり」という感慨があった。本音である。「生きたい」という願望が、自然の力によって「生かされる」安息感に転化している。病弱ではなくとも、「いのち」のことを思う人すべてに、この句は共感を呼ぶだろう。(清水哲男)


January 2312000

 おそく来て若者一人さくら鍋

                           深見けん二

の色が桜のそれに似ているので、いつのころからか「さくら」は馬肉の異称となった。寿司屋の符丁で、蝦蛄(しゃこ)を「ガレージ」と言うがごとし。ただし、このような半可通の下手な洒落を私は好まない。地下鉄丸ノ内線「新宿御苑」駅の裏手出口のそばに、「さくら鍋」を出す店がある。味噌仕立てではなく、鋤焼(すきやき)風に焼いて食べさせる。ここに仲間と、年に一度か二度あつまる。その都度、誰かの記念日であったり厄落としであったりするのだけれど、ま、みんなで飲む口実さえあればよいというわけ。句の場合も同じような集いであろうが、一人の若者がかなり遅れて来た。必ず来ることになっていたので、一人前だけ別にとってあった。それを、シラフの若者が黙々と食べている図である。なんということもないのだが、みんなが一度食べ終えた鉄の鍋で、桜色の馬肉を焼いている様子は、若者だけに侘びしいものがある。本来の若い血気が、しょんぼりしている。やっぱり、鍋はみんなでわいわいにぎやかに食ってこそ美味いのだ。それを、一人で食べている。よんどころない事情からだろうが、すまなそうな顔をしている。もうすぐ、会はお開きだ。いや、店との約束の時間はもう過ぎているようだ。「ちゃんと食えよ」。思いつつも、しかし作者ははらはらしている。『雪の花』(1977)所収。(清水哲男)


January 2212000

 ひとの部屋見廻してゐる炬燵かな

                           岡本高明

れぞ「思い当たらせる」句表現の代表格だ。読者の誰もが、思い当たるだろう。他家の部屋に通されて、炬燵(こたつ)をすすめられる。そこに座るまではよいのだが、その後で、誰もがなんとなく部屋を見廻してしまう。あれは、別に何を見ようとするわけではない。所在なく、とも一寸ちがう。なんとなく、なのだ。ほとんど、この行為は無意味かと思われる。深く考えたことはないけれど、ここで強いて言うならば、あれは人が新しい環境に適合するための本能的な行為なのかもしれない。周囲のありようと、できるだけ早くバランスをとるための準備というわけだ。編集者時代、劇作家の飯島匡さんのお宅にお邪魔したことがある。書斎での写真撮影を申し込んだところ、言下に断られた。「親しい友人でも、書斎には通さないことにしてるから……。なぜボクの書棚に『手紙の書き方』なんて本があるのかと、そう思われるだけでイヤなんだよ」。「なるほどねえ」と、私は心のうちで大いに思い当たった。カメラマンと一緒に通された飯島さんの応接間には、あらためて見廻してみると、たしかに見事に何もなかった。「俳句界」(2000年1月号)所載。(清水哲男)




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