このごろ都に流行るもの。キックボード。何のことはない、昔の幼児用スケートの金属製版だが。




2000ソスN1ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2612000

 刀剣の切っ先ならぶ弱暖房

                           川嶋隆史

く感じられる「名刀展」の会場だ。なぜ「弱暖房」なのか。わかる人にはわかる句だが、ただし、わかる人には逆に面白くない句かもしれない。もちろん、ここに掲載したのにはワケがある。作者は、ほぼ私と同年齢のようだ。同世代の人が「刀剣」に関心を抱き、句にまで仕立て上げたことに、それこそ私の関心が動いたからである。恥を話せば、私は京都の大学で美学美術史を専攻し、貴重な刀剣をヤマほど見る機会があったにもかかわらず、怠惰にやり過ごしていた学生であった。実際に刀剣に触れたのは、たった一度きり。それも、遊びに行った後輩の実家でだった。彼は何振りも切っ先を揃えるかたちで抜いて見せてくれ、「触ってみてください。でも、息を吹きかけないようにお願いします」と言った。すなわち、それだけ微妙な反応をする刃物なのである。したがって「弱暖房」にも、うなずいていただけるだろう。息を詰めて持たせてもらった第一印象は、とにかく重いということであり、しかし、手にした刀身をじっと見つめていると、吸い寄せられるような霊気を感じたことも覚えている。世に名刀妖刀の類は多いようだが、あれは手に持ってみてはじめて真価がわかるというものだ。……と、そのときから信じ込んでいる。偶然にこの句に触れたことで、そんなことを思い出した。作者も、きっと手にしたことのある人だろう。句は、言外にそのことを言おうとしているのだと思った。俳誌「朱夏」(28号・1999年12月)所載。(清水哲男)


January 2512000

 鬱としてはしかの家に雪だるま

                           辻田克巳

びに出られない子供のために、家人が作ってやったのだろう。はしかの子の家には友だちも来ないから、庭も静まりかえっている。家の窓からは、高熱の子がじいっと雪だるまを眺めている。なんだか、雪だるまの表情までが鬱々(うつうつ)としているようだ。雪だるまには明るい句が多いので、この句は異色と言ってよい。どんな歳時記にも載っているのが、松本たかしの「雪だるま星のおしゃべりぺちゃくちゃと」だ。「星のおしゃべり」という発想は、どこか西欧風のメルヘンの世界を思わせる。したがって、この場合の雪だるまは「スノーマン」のほうが似合うと思う。スヌーピーの漫画なんかに出てくる、あの鼻にニンジンを使った雪人形だ。よりリアルにというのが彼の地の発想だから、よくは知らないが、日本のように団子を二つ重ねた形状のものは作られないようだ。どうかすると、マフラーまで巻いたりしている。こんなところにも、文化の違いが出ていて面白い(外国にお住まいの読者で、もし日本的な雪だるまを見かけられたら、お知らせください)。雪だるまの名称は、もちろん達磨大師の座禅姿によっている。だから、堅いことを言えば、ホウキなどの手をつけるのは邪道だ。それだと、修業の足りない「達磨さん」になってしまうから。(清水哲男)


January 2412000

 日脚伸ぶ夕空紺をとりもどし

                           皆吉爽雨

なみに、今日の東京の日没時刻は16時59分。冬至のころよりは30分近く、夕刻の「日脚」が伸びてきた。これからは、少しずつ太陽の位置が高くなって、家の奥までさしこんでいた日光が後退していく。それにつれて、今度は夕空の色が徐々に明るくなり「紺」を取り戻すのである。この季節に夕空を仰ぐと、ひさしぶりの紺色に、とても懐しいような感懐を覚える。「日脚伸ぶ」という季語を、空の色の変化に反射させたセンスは鋭い。まさに「春近し」の感が、色彩として鮮やかに表出されている。私などは、本当の春よりも、新しい季節が近づいてくるこうした予感のほうに親しみを覚える。単なるセンチメンタリストなのかもしれないが、たまさか「よくぞ日本に生まれけり」と思うのは、たいていが移ろいの季節にあるときだ。一方、病弱だった日野草城には「日脚伸びいのちも伸ぶるごとくなり」という感慨があった。本音である。「生きたい」という願望が、自然の力によって「生かされる」安息感に転化している。病弱ではなくとも、「いのち」のことを思う人すべてに、この句は共感を呼ぶだろう。(清水哲男)




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