官庁HP荒し。問題は落書きなどの目立つ痕跡を残さない侵入者のほうだ。事例はなかったのか?




2000ソスN1ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2812000

 寒鴉己が影の上におりたちぬ

                           芝不器男

鴉(かんがらす)は、冬のカラス。「己」は「し」、「上」は「へ」と読む。針の穴をも通す絶妙のコントロール。そんな比喩さえ使いたくなるほどの名句だ。この季節のカラスの動きを、ぴたりと言い当てている。空にあったカラスが、自分の影に吸い寄せられるように降りてきた。それだけのことだが、静止画ではなく、いわば動画をここまで活写していることに、一度でも句作経験のある人ならば、口あんぐりと言うところだろう。「やられた」というよりも「まいりました」という心が、素直にわいてきてしまう。作られたのは1927年(昭和二年)、作者はわずかに25歳だった。昔のカラスは、いまのようにごみ捨て場を漁ったりはしなかった。というよりも、ごみ捨て場には、いまのようにエサとなるようなものは少なかった。だから、エサを求める冬場のカラスは、直接に魚屋や八百屋の店先までをも襲ったという。となれば、人々の感覚としては、昔のカラスのほうが、よほど凶暴にして不吉に思えていたにちがいない。そんなカラスが、いましもさあっと舞い降りてきたのだ。しかも、おのれの影の上にしっかりと……。存在感も抜群だ。この後、カラスはどう動くのだろうか。『麦車』(ふらんす堂文庫・1992)所収。(清水哲男)


January 2712000

 狐着て狸のごとく待ちをりぬ

                           岡田史乃

も狸も冬の季語。句の場合は、表に現れているのが狐であり、狸は心理的な産物なので、いわゆる季重なりではないと見たい。当歳時記では「襟巻」に分類した。さて、作者は狐の襟巻きをして、人を待っている。でも、待っている心持ちは狸のようだと言うのである。狐は人を「化かし」、狸は自分で「化ける」。だから、作者の気分は、これから会う人を「化かす」というのではなくて、「化けて」待っているというわけだ。めったにしない狐の襟巻きなので、自然にそんな気持ちになっている。心理的にもそうだし、首筋や肩のあたりの触感も、狸みたいな気分に加わっている。「くくっ」と一人笑いももれているようだ。最近は、とんと狐の襟巻き姿にお目にかからない。持っている人はあっても、動物愛護団体などの目が気になって、着て歩く勇気が出ないこともあるのだろうか。それとも、もうファッションとして時代遅れということなのか。面白いもので、そんな襟巻き姿の女性を見かけると、必ず反射的に、狐とご当人の顔とを見比べたものだった。見比べて、べつに何を思うというのではなく、同じ場所に顔が二つあることへの、軽いショックからだったのだろう。我が家にも、母の狐があった。しかし、母がして出かける姿を一度も見たことはない。そんなご時世じゃなかった。蛇足ながら「狐の手袋」はジキタリスの別称。『ぽつぺん』(1998)所収。(清水哲男)


January 2612000

 刀剣の切っ先ならぶ弱暖房

                           川嶋隆史

く感じられる「名刀展」の会場だ。なぜ「弱暖房」なのか。わかる人にはわかる句だが、ただし、わかる人には逆に面白くない句かもしれない。もちろん、ここに掲載したのにはワケがある。作者は、ほぼ私と同年齢のようだ。同世代の人が「刀剣」に関心を抱き、句にまで仕立て上げたことに、それこそ私の関心が動いたからである。恥を話せば、私は京都の大学で美学美術史を専攻し、貴重な刀剣をヤマほど見る機会があったにもかかわらず、怠惰にやり過ごしていた学生であった。実際に刀剣に触れたのは、たった一度きり。それも、遊びに行った後輩の実家でだった。彼は何振りも切っ先を揃えるかたちで抜いて見せてくれ、「触ってみてください。でも、息を吹きかけないようにお願いします」と言った。すなわち、それだけ微妙な反応をする刃物なのである。したがって「弱暖房」にも、うなずいていただけるだろう。息を詰めて持たせてもらった第一印象は、とにかく重いということであり、しかし、手にした刀身をじっと見つめていると、吸い寄せられるような霊気を感じたことも覚えている。世に名刀妖刀の類は多いようだが、あれは手に持ってみてはじめて真価がわかるというものだ。……と、そのときから信じ込んでいる。偶然にこの句に触れたことで、そんなことを思い出した。作者も、きっと手にしたことのある人だろう。句は、言外にそのことを言おうとしているのだと思った。俳誌「朱夏」(28号・1999年12月)所載。(清水哲男)




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