2000N2句

February 0122000

 或日あり或日ありつつ春を待つ

                           後藤夜半

半、晩年の一句。うっかりすると読み過ごしてしまうほどに地味だが、鋭い感性がなければできない句だ。「或日(あるひ)」とは、特筆すべき出来事など何もないような平凡な日の意だろう。「或日」のリフレインは、そうした日々を重ねている時間についての写生である。句の面白さは、そんな平々凡々としか言いようのない時間を過ごしているなかで、しかし、いつしか「春待つ」心が芽生えていることの不思議に気がついたところだ。「春よ、来い」などと大仰に歌っているわけではなくて、自分の心のなかに自然に春を待つ感情が湧いてきている。そのことに気づいたときの、じわりと滲み出てくるような嬉しさ。それがそのまま、読者の「春待つ」心に染み入ってくる。月並みな比喩で恐縮だが、燻し銀の魅力を思わせる句だ。そこにたまたま「今日の客娘盛りの冬籠」となれば、もはや言うことなしか。ただし、俳句の出来からすれば、掲句のほうが格段に上等であることは、読者諸兄姉がご明察のとおりである。今日から二月。明後日は節分。そして四日は、暦の上での「春」となる。遺句集『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


February 0222000

 セーターにもぐり出られぬかもしれぬ

                           池田澄子

い当たりますね、この感じ。私の場合は不器用なせいもあり、子供のころは特にこんなふうで、セーターを着るのが億劫だった。脱ぐときも、また一騒ぎ。セーターに頭を入れると、本能的に目を閉じる。真っ暗やみのなかで、一瞬もがくことになるから、余計にストレスを感じることになるのだろう。取るに足らないストレスかもしれないが、こうやって句を目の前に突きつけられてみると、人間の哀れさと滑稽さ加減が身にしみる。そこで思い出すのが、虚子の「死神を蹶る力無き蒲団かな」だ。「蹶る(ける)」は「蹴る」より調子の高い表現。当人は風邪を引いて(虚子は実によく二月に風邪を引く人だった)高熱を発しているので、うなされている。夢に死神が出てきて、そいつを必死に蹶とばそうともがくのだけれど、蒲団が重くて足がびくとも動かない。「助けてくれーっ」と、まるで金縛り状態である。この状態にもまた、思い当たる読者は多いと思う。でも、風邪の熱はいずれ治まる。悪夢も退散する。が、セーターのなかでの一瞬の「もがき」は、ついに治まることはない。「出られぬかもしれぬ」。何の因果か。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


February 0322000

 わがこゑののこれる耳や福は内

                           飯田蛇笏

ぎれもない自分の声なのに、いつまでも耳について離れない。日常的にこういうことが起きてはたまらないが、たまさか大声を出したりすると、こういうことになる。ラジオの仕事でも、無理に声を作ったりした場合に、やはり「のこれる耳」を感じる。豆撒きから声の不思議を抽出した蛇笏の鋭さ、面白さ。作句時の心情を想像するに、下五を「福は内」にするか「鬼は外」で押さえようかと、一瞬迷っただろう。どちらでもそれなりに収まりはするけれど、ここは「のこれる」だから「内」を採ったのだと思う。神社などでの豆撒きイベントは盛んだが、家庭でのそれは廃れてきたような気がする。我が家でも、子供が小さかったころはともかく、いつの間にかやめてしまった。どうかすると、煎り豆すら用意しない年もある。近所からも、撒く声はとんと聞こえてこない。「悪鬼」という幻想が単純すぎて、複雑な時代にあわなくなってきたせいだろうか。ところで、今夜食べきれずに残った煎り豆を、そのままご飯に炊き込むと美味いという話を聞いた。料理評論家がラジオで言ったので、間違いはないと思いますが……。(清水哲男)


February 0422000

 年の内に春立つといふ古歌のまま

                           富安風生

春。ところが、陰暦では今日が大晦日。暦の上では冬である年内に春が来たことになり、これを「年内立春」と言った。蕪村に「年の内の春ゆゆしきよ古暦」があり、暦にこだわれば、なるほど「ゆゆしき」事態ではある。陰暦の一年は、ふつう三五四日だから、立春は暦のずれにより十二月十五日から一月十五日の間を移動する。そのあたりのことを昔の人は面白いと思い、芭蕉も一茶も「年内立春」を詠んでいる。したがって、陽暦時代に入ってから(1872)の俳句にはほとんど見られない季題だ。風生はふと思い当たって、掲句をつぶやいてみたのだろう。「古歌」とは、言うまでもなく『古今集』巻頭を飾る在原元方の「年の内に春は来にけりひととせを去年とやいはん今年とやいはん」だ。昨日までの一年を「去年(こぞ)」と言えばよいのか、いややはり暦通りに「今年」と呼べばよいのか。困っちゃったなアというわけで、子規が実にくだらない歌だと罵倒(『歌よみに与ふる書』)したことでも有名な一首である。事情は異るが、カレンダーに浮かれての当今の「ミレニアム」句を子規が読んだとしたら、何と言っただろう。少なくとも、肩を持つような物言いはしないはずである。(清水哲男)


February 0522000

 音立てて鉄扉下り来る雛の前

                           岡本 眸

の人形店。通りがかりの作者が足をとめて眺めていると、急にシャッターが下りはじめた。店じまいの時間なのだ。それはそれで止むをえないことながら、「もう少し見ていたいのに」という思いが容赦なく瞬く間に断ち切られていく。句集の前後の句からすると、このときの作者は退院したてだったようだ。だから、病院で検査を受けた帰途の出来事かもしれない。身も心も弱っているときの、この断絶感にはまいるだろう。元気な身だったら、句はおそらく生まれなかったと思う。気弱く足取りも弱く、店先を離れていく作者の姿が目に見えるようだ。どこか、人間という生きものへの「いとおしさ」を感じさせる一句である。雛(ひな)人形自体への哀しみを詠んだ句は多いけれど、こうしたテーマでの扱いは珍しい。下りてきた鉄扉の向こう側に残る人形の残像。おほろげではありながら、しかし、くっきりと鮮やかである。そこには、何の矛盾もない。『朝』(1971)所収。(清水哲男)


February 0622000

 春の夕焼背番「16」の子がふたり

                           ねじめ正也

まり詠まれないが、「春の夕焼」はれっきとした季語。古人は、その柔らかい感じを愛でたのだろう。句は、子供らが暗くなるまで原っぱで遊んでいた戦後の光景だ。通りがかった(たぶん、自転車で)作者は、微笑して子供の野球を眺めている。私にも覚えがある。みんなのユニフォームはばらばらだ。それぞれが、好きなチームの好きな選手の背番号をつけて着ている。野球好きが見れば「ああ、あの子は巨人ファンだな」とわかり、背番号で誰のファンかもわかる。子供は、すっかりその選手になりきってプレイしているのので、それがまた見ていて楽しい。このときには「16」が二人いた。言わずと知れた「打撃の神様」川上哲治一塁手(巨人)の背番号だ。後に長嶋茂雄三塁手(巨人)の「3」などでも、このようなことは起きたけれど、川上時代ほどではなかったように思う。なにしろ、銭湯の下駄箱の番号でも、常に「16」は取り合いだったのだから……。テレビで野球を見られるようになって以降、背番号の重要度は希薄になってしまった。選手を覚えるのに背番号なんて面倒くさいものよりも、直接「顔」や「姿」で覚えられるからである。いつしか、私も背番号を覚えようとはしなくなった。今季の長嶋監督は、私などの世代には狂おしいほどに懐しい「3」をつける。でも、それで気張っているのは長嶋さん当人と我々オールド・ファンくらいのもので、選手を含めた若者たちは何も感じはしないだろう。ここらへんにも、今の巨人戦略の時代錯誤的脆弱さが露出している。『蝿取リボン』(1991)所収。(清水哲男)


February 0722000

 東風吹かばポテトチップス歩み来る

                           小枝恵美子

風(こち)には「荒東風」という言い方もあるように、春先に吹くやや荒い風のことだ。「春風」の駘蕩とした柔らかさは、まだない。が、冬の間の北風が東からの風に変わってきただけでも、春本番も間近と思えて、気分はなごんでくる。そんな嬉しさのなかで、掲句は発想された。まさか「ポテトチップス」が歩いて来るわけもないけれど、あのシャワシャワとざわめくような感触が、よく「東風」の体感とつり合っている。リズムも軽快で、理屈抜きに楽しい句だ。「ポテトチップス」は季節を問わない食べ物ではあるが、こう詠まれてみると、早春にいちばん似合う菓子だと思えてくるから不思議な気もする。作者の感覚の勝利である。この種の句は、たくらんだり推敲を重ねたりして出来るものではないだろう。その時その場の感覚の瞬発力で、それこそ理屈抜きに書きとめてしまう必要がある。このように、俳句にはとっさの感応に呼応する受け皿も、伝統的にちゃんと用意されており、そこが常に構築を要求する(かのような)他ジャンルの文芸とは大いに違うところだ。詩の書き手としては、妬ましくもうらやましいと言っておくしかない。『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)


February 0822000

 梅固し女工米研ぐ夜更けては

                           飴山 實

集の一つ前の句に「貯炭場に綿入れ赤し鉱区萌え」がある。作句は1955年(昭和三十年)、戦後十年目の早春だ。まだ「女工」という言葉が生きていた。当時の私は高校生、父が働いていた花火工場の寮に住んでいたので、この哀感はよく理解できる。朝早くから夜遅くまで働きづめに働いて、ようやく寮に戻ってくると、今度は自分の食事のための労働が待っていた。電気炊飯器などはない時代だから、冷たい水で米を研ぎ、火を起こして炊かなければならない。コンビニで簡単に弁当が買える今の環境とは大違いだ。「女工」たちは、多くが中学を卒業したばかりくらいの年齢だった。「梅固し」は、そんな蕾のような少女の姿を彷彿とさせている。貧しい農村や漁村から、集団就職で鉱区はもとよりいろいろな工場に働きに出た少年少女の数は膨大だった。「金の卵」とおだてられもしたが、要するに安い労働力として使われていたわけで、遊びたい盛りの彼らの心情はいかばかりだったろう。こうした人々の苦しい労働の結集があって、はじめてこの国の基盤が築かれたことを忘れてはならない。もはや高齢となった「金の卵」たちは、いまこの国に何を思って生きているのか。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


February 0922000

 ふくらんで四角薬屋の紙風船

                           小沢信男

ういえば、ありましたね。四角い紙風船。薬屋がおまけにくれた風船を、ふくらませてみたら四角だった。丸い風船のイメージがあったので、ちょっと意表を突かれたというところ。いかめしい感じの商売の薬屋だから、やっぱり風船もいかめしいや……。と、作者は心楽しくも腑に落ちている。そんな作者の納得顔が想像されて、もう一つ読者は楽しくなるという仕掛け。ところで、四角い紙風船はなかなか巧くつけない。どうかすると、とんでもない方角に飛んでいってしまう。不人気の理由である。そこへいくと、誰が発明したのか、丸い風船は実によくできている。形状の美しさもさることながら、ついているうちに内部の空気量が調節されるメカニズムの妙には、いつも驚かされてきた。寺田寅彦あたりに「紙風船論」はないのかしらん。ないのであれば、誰か専門家にぜひとも書いてほしいテーマである。「紙風船息吹き入れてかへしやる」(西村和子)。遊び道具を媒介にした、こうしたこまやかな心遣いの美学についても。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


February 1022000

 風の日の麦踏遂にをらずなりぬ

                           高浜虚子

山の雪を背に、春の日差しを浴びながら麦を踏んでいる姿はいかにも早春らしい。たいがいの歳時記には、こんなふうに出てくる。見ているぶんには確かに牧歌的な光景であるが、踏んでいるほうは大変なのだ。ひたすらに「忍の一字」が要求される。地雷の撤去作業にも似て、細心の注意をはらっての一歩一歩が大切である。いい加減に踏んだのでは、たちまちにして根が浮き上がって株張りが悪くなり、収穫はおぼつかない。理屈としては子供にもできる仕事なのだが、いくら多忙でも、子供にまかせきるような農家はなかった。句は1932年(昭和七年)の作。添書きに「荻窪、女子大句会」とあるから、この麦畑は東京のそれだ。往時の荻窪や吉祥寺、三鷹あたりは、どこもかしこも麦畑だった。早春の関東の風は、ときに激烈をきわめる。土ぼこりのために空の色が変わる日も再三で、つい三十年ほど前までは、目を開けていられない状態におちいるのは普通のことだった。これでは、麦踏みの人も辛抱たまらずに撤退してしまうわけだ。気になって、虚子は女子大(「東京女子大」か)の窓からそんな光景を何度も見ていたのだろう。やっと引き上げていったので、ホッとしている。『五百句』(1937)所収。(清水哲男)


February 1122000

 旗日とやわが家に旗も父も無し

                           池田澄子

はや死語の感のある「旗日(はたび)」。広辞苑には「各家で国旗を掲げて祝う日。祝祭日」と書いてある。私のそれこそ「父」の世代の人々は、よく「旗日」という言葉を使っていた。戦前は今日の祝日を「紀元節」と言ったが、ことさらに「紀元節」とは呼ばずに、ただ「旗日」と言う人が多かったようだ。各家での国旗掲揚は義務づけられていたようなものだから、「とりあえず旗を出しとけや」と、そんなニュアンスも「旗日」という言葉にはあるようだ。作者はここで、とりあえずも何も、「旗日」と言い習わしていた父親も亡くなってしまったし、第一我が家には「旗」なんてないもんね、知らないもんねと嘯(うそぶ)いている。「旗」と「父」を同格に扱っているところに、皮肉がある。句の「旗日」は、特別に今日を指しているわけではない。が、いろいろな「旗日」のなかで、いちばん今日にふさわしい内容だと思う。嘯きのなかに、歴史的な根拠の無い祝日への怒りがこめられていると読める。わが家にも旗はない。買おうと思ったこともない。デパートでは風呂敷売り場に置いてあると聞いたことがあるが、本当なのだろうか。ご存知の方、ご教示乞う。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


February 1222000

 落椿天地ひつくり返りけり

                           野見山朱鳥

字「椿」は、実は漢字ではない。日本で作られたいわゆる「国字」という文字で、中国では通用せず、本当の漢字(ああ、ややこしい)での「椿」は「山茶」と書く。そんなことはどうでもよろしいが、句は椿の落ちている様子を大袈裟に描いていて面白い。たしかに、椿の落ちざまはこんなふうだ。天地がひっくりかえっちゃっていて「えらいこっちや」という感じ。その意味では、誇張した表現を得意とする「漢詩」に似ていなくもない。昔の人はごく普通に漢詩に親しんでいたので、俳句にもその影響を受けた作品はいくつもある。「天地」で思い出したが、私は長い間「天地無用」の意味を反対に解していた。よく荷物の外箱に書いてある。「天地」が「無用」なのだから、逆さまにしても構わない意味だと信じ込んでいたのだ。でも、そんな荷物に限って逆さまにはできない感じだったので、不思議なことを書くものよと、訝しく思ってはいたのだが……。それが大学生のころだったか、「口外無用」という言葉に出くわして、はじめて「無用」に「してはいけない」という意味があることを知り、それこそ「天地」がひっくりかえるほど驚いた。お笑いください。英語では「This Side Up」などと表記する。わかりやすくて好きだ。『曼珠沙華』(1950)所収。(清水哲男)


February 1322000

 爪に火をともす育ちの老の春

                           阿波野青畝

畝、八十代の句。世間的には、悠々自適の暮らしぶりと見えていた時期の作品だ。作者もまた、よくぞここまでの感を得てはいるが、他方ではいつまで経っても貧乏根性の抜けないことに苦笑している。自足と自嘲とがないまぜになったまま、こうしてまた春を迎えることになった。ものみな芽吹く春の訪れは、年齢を重ねる意識と結びつかざるを得ない。その上で、幼少期の「育ち」が人生に影響することの真実を、老いの現実が具体的に示していることに感じ入っている。それにしても「爪に火をともす」とは、苛烈な比喩だ。蝋燭(ろうそく)の代わりに爪に火をともすなど、間違ってもできっこない。けれども極貧は、焼けるものなら我が身を焼いてでもよいというところまで「明かり」を欲するのだ。作者にとっては、もとより茫々たる昔の話ではあるが、懐しい昔話に閉じこめてしまうには、あまりにその渇望は生々しすぎたということだろう。誰もが老いていく。肉体も枯れていく。しかし、それは自分の中で、ついに昔話にはなしえない生々しい渇望の記憶とともに、なのである。この句にそんなことまで感じてしまうのは、私だけの気まぐれな「春愁」の故であろうか。『あなたこなた』(1983)所収。(清水哲男)


February 1422000

 老教師菓子受くバレンタインデー

                           村尾香苗

生徒からリボンをかけた小函を差し出されて、一瞬いぶかしげな表情になる。が、すぐに破顔一笑「ありがとう」という光景。きっと、先生の笑顔は素敵だったろう。題材を「老教師」にとったところが、作者の腕前を示している。バレンタインデーのいわれは、いまさらのようだから省略するが、こうしたほほ笑ましい交歓を生んできたところもあり、一概にチョコレート屋の商業戦略をののしってみたところではじまるまい。「義理チョコ」というミもフタもない言葉もあるけれど、この場合はそうではなく、やはり真っ当な愛情表現の一つになっている。この日の句では、小沢信男の「バレンタインデー樋口一葉は知らざりき」も傑作だ。彼女の薄幸の生涯を想うとき、句にはまことに哀切な響きがあると同時に、返す刀で「義理チョコ」世相の軽薄を討つ姿も見て取れる。で、ひさしぶりに、一葉の淡い愛の世界を読みたい気分になった。ついさきほど、たしかこのあたりに文庫本があったはずだと書棚を眺めてみたが、見当たらない。発作的にある本が読みたくなったときに、こうして、私は同じ本を何冊も買う羽目におちいってしまう。昔からだ。(清水哲男)


February 1522000

 われら十二歳の夏にしあれば川鋭し

                           清水哲男

生日は自句自註の日。夏の句で申しわけないが、お許しあれ。十二歳は「じゅうに」と読んでください。山口県の寒村に暮らし、家はとても貧乏だったけれど、精神的にはこのころがいちばん充実していたような気がする。「21世紀まで生きられるかなあ」「無理だろうなあ」と、友だちと話したのも、このころだった。学校を出たての野稲先生から「自分の将来」という作文の題をもらって、銀行員になりたいと書いたのは、なればお金に不自由しないだろうという子供の浅智慧からだった。夏ともなれば、川での魚釣り。他には、することもなかった。かんかん照りのなかで釣り糸を垂らしていると、ぼおっとしてくる。そんな状況のなかでは、次第に川との共生感が生まれてくるのだった。川水はどこまでも清冽で、一分と手を漬けてはいられないほどの冷たさ。鋭いとしか言いようのない水の流れ。そんな川とともにあること(しかも、たったの十二歳で……)のプライドを詠んだつもりが、この句だ。たまにしか旅行できないが、見知らぬ土地へ行くと必ず川を見る。自然に見入ってしまう。川はいいな。いつだって、子供の心で眺められるから。『匙洗う人』(思潮社・1991)所収。(清水哲男)


February 1622000

 山に雪どかつとパスタ茹でてをり

                           松永典子

日の「夏にしあれば」から、季節は一転して真冬へと……。実は、昨日の天気予報で「川鋭し」の故郷近辺に大雪警報が出ていたので、ぱっと掲句を思い出したという次第。もちろん私が子供だったころにパスタなんて洒落た食べ物はなかったけれど、饂飩(うどん)だっていいわけだし、作者の思いは時間を逆転しても十分に通用する。「どかつと」は雪とパスタの両方の量にかけられており、それだけでも作者の非凡な才能を認めざるをえない。加えて、素朴でのびやかな感覚が素敵だ。外の寒さと厨房の暖かさとの対比までは、少し俳句を齧った人には思いの至る発想だが、たいていはちまちまとした句になってしまいがち。ところが見られるように、作者は堂々としている。してやったりの小賢しさがない。内心では「してやったり」なのではあろうけれど(失礼)、それをオクビにも表に出さないという、いわば秘めたる力技の妙。きっと、この「どかつと」茹でられたアツアツのパスタは美味しかったでしょうね。と、思わずも作者に話しかけたくなるところに、真面目に言って、俳句的表現の必然不可欠性が存在する。私たちが俳句をないがしろにできない根拠が、質量ともにここに「どかつと」例証されている。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)


February 1722000

 白梅に藁屋の飛んで来し如く

                           大串 章

屋の庭に満開の白梅。典型的な昔ながらの早春風景だ。吟行などでこの風景を目の前にして、さて、どんな句が作れるか。けっこう難しい。そこへいくとさすがにプロは違うなあと、掲句にうなる人は多いのではなかろうか。うなると同時に、思わずにやりともさせられてしまう。句が、かの菅原道真の「飛梅(とびうめ)」の歌「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」を踏まえているからだ。この歌を知った梅の木が、道真の配所・筑紫まで一夜にして飛んでいった話は有名だ。いまでも「飛梅」として、福岡は太宰府天満宮に鎮座している。菅原さんが梅を飛ばしたのに対して、大串さんは藁屋を飛ばしてしまった。梅の木が飛ぶのだったら、藁屋だって飛ぶのだ。そう着想した大串さんの、春のようにおおらかな心を味わいたい。最近では藁屋も見かけなくなったが、三鷹市狐久保に一軒あって、毎日のようにバスの窓から見ている。「きれいに手入れされた屋根だけど、維持費がたいへんだろうなあ」と、ある日のバスの乗客。「あそこは大金持ちだから、あんな家残しておけるんだ」とは、もう一人の乗客。バスも会話も、早春の風に乗って藁屋の傍らを通り過ぎていく。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)


February 1822000

 すきとおるそこは太鼓をたたいてとおる

                           阿部完市

明な孤独感の表出。……と書いてみると、これでよいような、どこか間違っているような。「そこ」は「底」でもあり「其処」でもあるだろう。このとき、太鼓はどんな太鼓なのだろうか。私は、玩具の楽隊が叩くような小さくて赤い太鼓を想像している。大の男がそれを規律正しい足取りで叩きながら通る姿は、かぎりなく狂気に近い正気な行為に見えて、自分の心にも「こういうところがあるな」と納得できる。誰でもが、主にその幼児性において、狂気すれすれの生を生きているのだと思うし、ある日突然、それはかくのごときイメージとなって脳裏に明滅したりする。この句のよさは、妙に文学的に身をやつしていないところであり、加えて暗さが微塵もない点にあるだろう。まさに、単純にして素朴に「すきとおる」のみの世界。この力強さは、一行詩と言えなくもない表現様式に、なお俳句であることを主張している。俳句の修練を通過していない表現者には、このような「ポエジー」は書けないのだ。一読、不思議な世界には違いないが、何度か反芻しているうちに、いつしか我が身になじんでくるという不思議。俳句の力。『にもつは絵馬』(1974)所収。(清水哲男)


February 1922000

 もやし独活鉄砲かつぎして戻る

                           高本時子

活(うど)は、関東武蔵野の名産。一昨日、武蔵野市で恒例の品評会と即売会が開かれ、知りあいが求めてきたもののお裾分けにあずかった。ひょろ長いので、句のように「鉄砲かつぎ」して持ち帰り(バスの中では、さすがにuprightに持たざるをえなかったけれど)、夕食時に間に合った。早春の香り。シャキシャキとした歯触りで、奥行きのある美味。生そのままで酒のサカナにしても似合うが、生産者は天麩羅にすると美味いよと言っている。それにしても「もやし独活」とは、言いえて妙だ。山野に自生する「山独活」に対してのネーミングで、特殊な栽培法により食べられる茎の部分をできるだけ長く伸ばすところから、「もやし」と言ったのである。ひょつとすると、正統山独活愛好派からの揶揄が入っている呼び名なのかもしれない。かの高村光太郎に「山うどのにほひ身にしみ病去る」がある。まさか独活を食べたせいで「病去る」となったわけではないのだが、早春の訪れを告げる「にほひ」に接して、体調よろしきはそのおかげだと感じている心情が嬉しい。よくぞ日本に生まれけり、である。(清水哲男)


February 2022000

 朝寝して旅のきのふに遠く在り

                           上田五千石

語は「朝寝」で春。春眠に通じる。長旅から戻った疲れから、時間を忘れて遅くまで眠った。目覚めたときに一瞬、自分の寝ている場所がどこかと確認し、自宅であることに安堵して、またうつらうつら……。心地よいまどろみ。「きのふ」までの遠い旅の余熱が残っている気分が、よく出ている。海外から戻ったときなどには、とくにこうした気分の朝を迎える。旅先での緊張度が、いかに重いものかを実感させられるときだ。俗に「枕がかわると眠れない」などと言うが、旅行には必ず自分の枕を携行する友人がいる。ライナスの毛布みたいだけれど、案外そういう人は多いのかもしれない。私の場合は、大昔の学生運動でのごろ寝の習慣が身に付いてしまい、どんな環境でも一応は寝ることができる。ただ、だんだん年齢を重ねてくるにつれ、身体がぜいたくになってきたのか、静かな部屋でゆったり寝たいと思うようにはなってきた。よほどのことでもなければ、もう教室の机の上や公園のベンチで寝ることもないだろう。青春という名のはるかに遠い旅の日々よ。「俳句とエッセイ」(1982年5月号)所載。(清水哲男)


February 2122000

 大丈夫づくめの話亀が鳴く

                           永井龍男

語は「亀鳴く」。春になると、亀の雄が雌を慕って鳴くのだそうな。もちろん、鳴きゃあしない。でも、亀を見ると鳴いてもよさそうな顔つきはしている。浦島太郎に口をきいた亀は海亀(それも赤海亀の「雌」だろうという説あり・昨夜のNHKラジオ情報)だが、俳句の亀は川や湖沼に生息する小さな亀だ。どんな歳時記にも「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなり」という藤原為家の歌が原点だと書いてある。さて「大丈夫」という話ほどに、「大丈夫」でない話はない。ましてや「大丈夫づくめ」とくれば、誰だって何度も眉に唾する気持ちになる。そんなインチキ臭い話につき合っているうちに、作者はだんだんアホらしくなってきて、むしろ逆に愉快すらを覚えたというところか。鳴かない亀の鳴き声までが聞こえてくるようだと、気分が落ち着いた。ところで、この話を持ちかけている(たぶん)男は、相当なお人よしなのである。口車に乗せようとしても、その端から相手に嘘を悟られていることに気がつかないのだから……。うだつのあがりそうもない営業マンに多いタイプだ。しかし、彼の嘘つきの背景には、妻子を抱えての生活があるのかもしれないし、他に必死の事情があるのかもしれない。そう思うと、作者は笑っているが、なんだかとても辛くなる句だ。『雲に鳥』(1977)所収。(清水哲男)


February 2222000

 薄氷の針を見出でし宿酔

                           三橋敏雄

氷は「はくひょう」と読んでもよいのだが、和語ふうに「うすらひ」と読むのが俳句では普通。心地よい響きです。宿酔は、掲句では「ふつかよい」だろう。春先ともなれば、氷も薄くはる。割れやすく、真冬の氷とは違って穏やかな感じだ。が、その薄い氷の表に、作者は「針」を見てしまったと言うのである。宿酔ならではのトゲトゲしい感覚の所産だ。酒飲みのための解説ならば、これでおしまいにするところ(笑)。この句から敷衍して言えることは、宿酔だろうが高熱だろうが、はたまたもっと悲惨な状態にあろうが、人はそれなりの状況下で、必ず何かを見たり聞いたり感じたりするということだ。当たり前じゃないかと言うのはみやすいけれど、その当たり前こそが恐ろしい。薄氷に「針」を見た。「宿酔だからなあ」と、しかし、作者はそう笑い捨てるわけにはいかない何かを感じたからこそ、書きつけたのである。いずれ酔いなどさめてしまうが、さめないのはこのときの「針」の記憶だ。そして、また別の「針」を、また別の状況下でも見てしまう。人はいつもこうして、いわば薄氷の「針」の記憶の畳の上で生きているのだし、生きつづけていかなければならないのである。『三橋敏雄全句集』(1982)所収。(清水哲男)


February 2322000

 なずな咲くてくてく歩くなずな咲く

                           小枝恵美子

ずな(漢字では「薺」と難しい字を書く)は、陰暦正月七日の七種粥に入れる七草の一つなので、単に「なずな」だと、歳時記的には「新年」に分類される。が、花が咲くのは早春から梅雨期にかけてであり、掲句の場合には「薺の花」で春。またの名を「ぺんぺん草」とも「三味線草」とも言う(こちらのほうがポピュラーか)。さて、この句の魅力は「てくてく」にある。「歩く」といえば「てくてく」など常套的な修辞でしかないが、実にこの「てくてく」の用法は素晴らしい。いたるところに咲いているなずなの道を行く気分は、別にいちいち花を愛でながらというわけでもないので、むしろ常套的な「てくてく」がふさわしいし、句の情景を生き生きとさせている。「むしろ技巧的に思われるほどだ」と句集の栞で書いた池田澄子は、さらにつづけて「そこここに咲いている『なずな』と、そのことを喜び受け止めながら歩いている人物は、春を輝く万物の細部としての代表である」と述べている。これまた素晴らしい鑑賞だ。春の道は、こんなふうに「てくてく」と歩きたい。なお「なずな」を「ぺんぺん草」「三味線草」と呼ぶのは、その実を三味線のバチに見立てたことにちなむそうだ。今日調べてみるまでは、つゆ知らなかった。『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)


February 2422000

 雛飾りつゝふと命惜しきかな

                           星野立子

十歳を目前にしての句。きっと、幼いときから親しんできた雛を飾っているのだろう。昔の女性にとっての雛飾りは、そのまま素直に「女の一生」の記憶につながっていったと思われる。物心のついたころからはじまって、少女時代、娘時代を経て結婚、出産のときのことなどと、雛を飾りながらひとりでに思い出されることは多かったはずだ。「節句」の意味合いは、そこにもある。そんな物思いのなかで、「ふと」強烈に「命惜しき」という気持ちが突き上げてきた。間もなく死期が訪れるような年齢ではないのだけれど、それだけに、句の切なさが余計に読者の胸を打つ。俳句に「ふと」が禁句だと言ったのは上田五千石だったが、この場合は断じて「ふと」でなければなるまい。人が「無常」であるという実感的認識を抱くのは、当人にはいつも「ふと」の機会にしかないのではなかろうか。華やかな雛飾りと暗たんたる孤独な思いと……。たとえばこう図式化してしまうには、あまりにも生々しい人間の心の動きが、ここにはある。蛇足ながら、立子はその後三十年ほどの命を得ている。私は未見だが、鎌倉寿福寺に、掲句の刻まれた立子の墓碑があると聞いた。あと一週間で、今年も雛祭がめぐってくる。『春雷』(1969)所収。(清水哲男)


February 2522000

 たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ

                           坪内稔典

っ、たんぽぽ(蒲公英)の「ぽぽのあたり」って、どこらへんなの(地方によっては、ちょっとエロチックな想像に走る人もいそうだ)。そう思った途端に、読者は作者の術中にはまっている。実体を指示するための言葉を、あっけらかんと実体そのものに転化させてしまう手法はユニークだ。詩の世界では見られなくもないけれど、俳句では珍しい。「どこと問われてもねえ」と、笑っているだけの作者の顔が浮かんでくるようだ。馬鹿馬鹿しいといえばそれまでだが、しかし、この句は確実に記憶に残る。その「記憶に残る」ということが、作者近年のテーマのようだ。句集の後書きに「簡単に覚えることができ、そして気軽に口ずさめる俳句は、諺にきわめて近い」と記されており、「言技師(ことわざし)こそが俳人」だと言っている。賛成だ。論より証拠(!!)。坪内稔典の人口に膾炙している句は、みんな諺のように覚えやすい。しかも、諺とは違って、中身はナンセンスの極地にある。こういう句は、よほど言葉が好きでないとできないだろう。そしてもう一方では、よほど人間が好きで、その機微に通じるセンスがないと……。ちなみに、連作「ぽぽのあたり」は「たんぽぽのぽぽのその後は知りません」で締めくくられている。はぐらかされたか。そこがまた楽しい。『ぽぽのあたり』(1998)所収。(清水哲男)


February 2622000

 椿的不安もあるに井の蓋は

                           小川双々子

だ寒さの残る早春の光景。田舎で育った人には、きっと見覚えがあるだろう。庭の片隅に蓋のされた井戸があって、すぐ近くでは椿の花が凛とした姿で咲いている。井戸の蓋は、手漕ぎポンプを取り付ける支えのためと、ゴミが入らないようにするためだ。誰もが見慣れた光景だが、そのなんでもないところから、双々子はこれだけのことを言ってのけている。「凄いなア」と、ただ感嘆するばかりだ。「椿的不安」とは、凛として咲いてはいるのだが、いつ突然にがくりと花首が折れるかもしれぬ不安だ。ひるがえって、井戸の蓋はどうか。一見ノンシャランの風情に見えるけれど、考えてみると、蓋の裏面は奈落の底と対しているわけだ。その暗黒で計ることのできない下方への距離感は、想像するだに「板子一枚下は地獄」よりもずっと怖いだろう。いつ、突然にはるか下方の水面に落下するやもしれぬ。日夜、そんな「椿的不安」にさいなまれていないはずはない。なのに「井の蓋」は、いつ見ても平然としている。見上げたものよ。人間だとて、所詮はこの「井の蓋」と同じような存在だろう。かくのごとき境地を得たいものだと、作者は願っている。「地表」(1999年・11-12合併号)所載。(清水哲男)


February 2722000

 受験期や少年犬をかなしめる

                           藤田湘子

験期の日々の、なんとも名状しがたく、やり場のない重圧感。あの気分は、たぶん受験に失敗した者しか覚えていないのだろうけれど……。あのときに生まれてはじめて、大半の少年(少女)は「誰も助けてくれない」という社会的重圧に直面する。そんなときに心が向かうのは、家族や友人や教師といった人間にではなく、たいていは句のように相手が犬だったりする。犬は「たいへんだねえ」とも言わないし「がんばれよ」とも言わない。いつも通りの態度なので、かえって心が癒されるのだ。生臭くない淡々たる関係が、そこだけにある。いつもと変わらぬ日常性が生きている。その関係のなかで、しかし少年は人間だから、その関係性をいささか毀し加減に相手を「かなし」むということをする。普段よりも、余計に可愛がったりしてしまう。横目で見ている作者は、そのことをまた「かなし」んでいるという句の構造だろう。すなわち、そこが「かなしめり」と平仮名表記されている所以で、このとき「かなしめり」は「愛しめり」であり「哀しめり」でもあり、さらには「悲しめり」でさえあるのかもしれない。『途上』(1955)所収。(清水哲男)


February 2822000

 春空の思はぬ方へ靴飛べり

                           守屋明俊

供時代の思い出。春の空を見ているうちに、ひょいと思い出している。ボールか何かを思い切り蹴飛ばしたら、ついでに靴までが脱げて飛んでいってしまった。ボールはあっちへ、靴はあらぬ方へと。私にも、覚えがある。今はそうでもないのだろうが、昔の子供は少し大きめの(ともすると、ブカブカの)靴を買い与えられたものだ。月星運動靴だったかなあ、そんなズック靴。成長がはやいので、ぴったりした靴だと、すぐに履けなくなってしまうからである。靴といえぱ忘れられないのが、高校に入学した春のことだ。当時の立川高校は入学できる地域が広く、多摩地区全体から志望することができた。西は檜原村あたりから東は武蔵野市あたりまで。で、私など西からの新入生は当然のようにズック靴を履いていったのだが、東からの連中はみな革靴を履いていた。口惜しいので口にこそ出さなかったけれど、かなりのショックを受けた。そんなことは、東の諸君は覚えていないだろうな。革靴を買ってもらったのは、大学に入ってからだった。何度も靴底を張り替えて履いていたものである。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


February 2922000

 薮うぐひすようこそ東京広きかな

                           及川 貞

(うぐいす)といえば春だが、「薮鶯(やぶうぐいす)」は冬に分類。越冬期に人里近く降りてくる鶯のことで、まだ鳴き声も「チチッ、チチッ」とおぼつかない。そんな時期の鶯が、庭先にでも姿を現したのだろうか。ああ、春も間近だと嬉しくなり、思わずも「ようこそ」と内心で声をかけている。一般的に「東京は広い」というとき、地理的な広さとは別に、転じて「何でもあり、何でも起きる」という意味に使うことがあるが、句の「広き」もこれに近い意味だと思う。まさか、こんな町中のこんな庭にまで鶯が……というニュアンスだ。だから「ようこそ」なのである。作られたのは、戦後も十数年を経たころ。薮(あるいは、かろうじて薮と呼べるところ)なども、まだ東京のそこここに残っていたとはいえ、鶯の出現はもはや珍しい出来事であったにちがいない。読後、私は「ようこそ」の挨拶語をこのように使える作者(女性)の人柄に思いがおよび、とても暖かい心持ちになった。しばらく、心地よい余韻に酔った。このころも世の中はギスギスしていたが、しかし一方では人々に高度成長期への躍動感もあったはずで、そのあたりの雰囲気が句に暖かさを誘ったとも読んだのだった。『夕焼』(1967)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます