昨日は一日中パソコンと遊んで暮らした。新聞をちらっと見ただけ。肩はこったが、楽しかったな。




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February 1322000

 爪に火をともす育ちの老の春

                           阿波野青畝

畝、八十代の句。世間的には、悠々自適の暮らしぶりと見えていた時期の作品だ。作者もまた、よくぞここまでの感を得てはいるが、他方ではいつまで経っても貧乏根性の抜けないことに苦笑している。自足と自嘲とがないまぜになったまま、こうしてまた春を迎えることになった。ものみな芽吹く春の訪れは、年齢を重ねる意識と結びつかざるを得ない。その上で、幼少期の「育ち」が人生に影響することの真実を、老いの現実が具体的に示していることに感じ入っている。それにしても「爪に火をともす」とは、苛烈な比喩だ。蝋燭(ろうそく)の代わりに爪に火をともすなど、間違ってもできっこない。けれども極貧は、焼けるものなら我が身を焼いてでもよいというところまで「明かり」を欲するのだ。作者にとっては、もとより茫々たる昔の話ではあるが、懐しい昔話に閉じこめてしまうには、あまりにその渇望は生々しすぎたということだろう。誰もが老いていく。肉体も枯れていく。しかし、それは自分の中で、ついに昔話にはなしえない生々しい渇望の記憶とともに、なのである。この句にそんなことまで感じてしまうのは、私だけの気まぐれな「春愁」の故であろうか。『あなたこなた』(1983)所収。(清水哲男)


February 1222000

 落椿天地ひつくり返りけり

                           野見山朱鳥

字「椿」は、実は漢字ではない。日本で作られたいわゆる「国字」という文字で、中国では通用せず、本当の漢字(ああ、ややこしい)での「椿」は「山茶」と書く。そんなことはどうでもよろしいが、句は椿の落ちている様子を大袈裟に描いていて面白い。たしかに、椿の落ちざまはこんなふうだ。天地がひっくりかえっちゃっていて「えらいこっちや」という感じ。その意味では、誇張した表現を得意とする「漢詩」に似ていなくもない。昔の人はごく普通に漢詩に親しんでいたので、俳句にもその影響を受けた作品はいくつもある。「天地」で思い出したが、私は長い間「天地無用」の意味を反対に解していた。よく荷物の外箱に書いてある。「天地」が「無用」なのだから、逆さまにしても構わない意味だと信じ込んでいたのだ。でも、そんな荷物に限って逆さまにはできない感じだったので、不思議なことを書くものよと、訝しく思ってはいたのだが……。それが大学生のころだったか、「口外無用」という言葉に出くわして、はじめて「無用」に「してはいけない」という意味があることを知り、それこそ「天地」がひっくりかえるほど驚いた。お笑いください。英語では「This Side Up」などと表記する。わかりやすくて好きだ。『曼珠沙華』(1950)所収。(清水哲男)


February 1122000

 旗日とやわが家に旗も父も無し

                           池田澄子

はや死語の感のある「旗日(はたび)」。広辞苑には「各家で国旗を掲げて祝う日。祝祭日」と書いてある。私のそれこそ「父」の世代の人々は、よく「旗日」という言葉を使っていた。戦前は今日の祝日を「紀元節」と言ったが、ことさらに「紀元節」とは呼ばずに、ただ「旗日」と言う人が多かったようだ。各家での国旗掲揚は義務づけられていたようなものだから、「とりあえず旗を出しとけや」と、そんなニュアンスも「旗日」という言葉にはあるようだ。作者はここで、とりあえずも何も、「旗日」と言い習わしていた父親も亡くなってしまったし、第一我が家には「旗」なんてないもんね、知らないもんねと嘯(うそぶ)いている。「旗」と「父」を同格に扱っているところに、皮肉がある。句の「旗日」は、特別に今日を指しているわけではない。が、いろいろな「旗日」のなかで、いちばん今日にふさわしい内容だと思う。嘯きのなかに、歴史的な根拠の無い祝日への怒りがこめられていると読める。わが家にも旗はない。買おうと思ったこともない。デパートでは風呂敷売り場に置いてあると聞いたことがあるが、本当なのだろうか。ご存知の方、ご教示乞う。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)




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