子供時代には「誕生日か」「ふーん」てなもの。祝いなどない。あれはあれで気持ちがよかった。




2000ソスN2ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1522000

 われら十二歳の夏にしあれば川鋭し

                           清水哲男

生日は自句自註の日。夏の句で申しわけないが、お許しあれ。十二歳は「じゅうに」と読んでください。山口県の寒村に暮らし、家はとても貧乏だったけれど、精神的にはこのころがいちばん充実していたような気がする。「21世紀まで生きられるかなあ」「無理だろうなあ」と、友だちと話したのも、このころだった。学校を出たての野稲先生から「自分の将来」という作文の題をもらって、銀行員になりたいと書いたのは、なればお金に不自由しないだろうという子供の浅智慧からだった。夏ともなれば、川での魚釣り。他には、することもなかった。かんかん照りのなかで釣り糸を垂らしていると、ぼおっとしてくる。そんな状況のなかでは、次第に川との共生感が生まれてくるのだった。川水はどこまでも清冽で、一分と手を漬けてはいられないほどの冷たさ。鋭いとしか言いようのない水の流れ。そんな川とともにあること(しかも、たったの十二歳で……)のプライドを詠んだつもりが、この句だ。たまにしか旅行できないが、見知らぬ土地へ行くと必ず川を見る。自然に見入ってしまう。川はいいな。いつだって、子供の心で眺められるから。『匙洗う人』(思潮社・1991)所収。(清水哲男)


February 1422000

 老教師菓子受くバレンタインデー

                           村尾香苗

生徒からリボンをかけた小函を差し出されて、一瞬いぶかしげな表情になる。が、すぐに破顔一笑「ありがとう」という光景。きっと、先生の笑顔は素敵だったろう。題材を「老教師」にとったところが、作者の腕前を示している。バレンタインデーのいわれは、いまさらのようだから省略するが、こうしたほほ笑ましい交歓を生んできたところもあり、一概にチョコレート屋の商業戦略をののしってみたところではじまるまい。「義理チョコ」というミもフタもない言葉もあるけれど、この場合はそうではなく、やはり真っ当な愛情表現の一つになっている。この日の句では、小沢信男の「バレンタインデー樋口一葉は知らざりき」も傑作だ。彼女の薄幸の生涯を想うとき、句にはまことに哀切な響きがあると同時に、返す刀で「義理チョコ」世相の軽薄を討つ姿も見て取れる。で、ひさしぶりに、一葉の淡い愛の世界を読みたい気分になった。ついさきほど、たしかこのあたりに文庫本があったはずだと書棚を眺めてみたが、見当たらない。発作的にある本が読みたくなったときに、こうして、私は同じ本を何冊も買う羽目におちいってしまう。昔からだ。(清水哲男)


February 1322000

 爪に火をともす育ちの老の春

                           阿波野青畝

畝、八十代の句。世間的には、悠々自適の暮らしぶりと見えていた時期の作品だ。作者もまた、よくぞここまでの感を得てはいるが、他方ではいつまで経っても貧乏根性の抜けないことに苦笑している。自足と自嘲とがないまぜになったまま、こうしてまた春を迎えることになった。ものみな芽吹く春の訪れは、年齢を重ねる意識と結びつかざるを得ない。その上で、幼少期の「育ち」が人生に影響することの真実を、老いの現実が具体的に示していることに感じ入っている。それにしても「爪に火をともす」とは、苛烈な比喩だ。蝋燭(ろうそく)の代わりに爪に火をともすなど、間違ってもできっこない。けれども極貧は、焼けるものなら我が身を焼いてでもよいというところまで「明かり」を欲するのだ。作者にとっては、もとより茫々たる昔の話ではあるが、懐しい昔話に閉じこめてしまうには、あまりにその渇望は生々しすぎたということだろう。誰もが老いていく。肉体も枯れていく。しかし、それは自分の中で、ついに昔話にはなしえない生々しい渇望の記憶とともに、なのである。この句にそんなことまで感じてしまうのは、私だけの気まぐれな「春愁」の故であろうか。『あなたこなた』(1983)所収。(清水哲男)




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