何か幕張の方で騒がしい。Apple新製品発表。秋葉原の2000はどんな具合かな。気のもめること。




2000ソスN2ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1822000

 すきとおるそこは太鼓をたたいてとおる

                           阿部完市

明な孤独感の表出。……と書いてみると、これでよいような、どこか間違っているような。「そこ」は「底」でもあり「其処」でもあるだろう。このとき、太鼓はどんな太鼓なのだろうか。私は、玩具の楽隊が叩くような小さくて赤い太鼓を想像している。大の男がそれを規律正しい足取りで叩きながら通る姿は、かぎりなく狂気に近い正気な行為に見えて、自分の心にも「こういうところがあるな」と納得できる。誰でもが、主にその幼児性において、狂気すれすれの生を生きているのだと思うし、ある日突然、それはかくのごときイメージとなって脳裏に明滅したりする。この句のよさは、妙に文学的に身をやつしていないところであり、加えて暗さが微塵もない点にあるだろう。まさに、単純にして素朴に「すきとおる」のみの世界。この力強さは、一行詩と言えなくもない表現様式に、なお俳句であることを主張している。俳句の修練を通過していない表現者には、このような「ポエジー」は書けないのだ。一読、不思議な世界には違いないが、何度か反芻しているうちに、いつしか我が身になじんでくるという不思議。俳句の力。『にもつは絵馬』(1974)所収。(清水哲男)


February 1722000

 白梅に藁屋の飛んで来し如く

                           大串 章

屋の庭に満開の白梅。典型的な昔ながらの早春風景だ。吟行などでこの風景を目の前にして、さて、どんな句が作れるか。けっこう難しい。そこへいくとさすがにプロは違うなあと、掲句にうなる人は多いのではなかろうか。うなると同時に、思わずにやりともさせられてしまう。句が、かの菅原道真の「飛梅(とびうめ)」の歌「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」を踏まえているからだ。この歌を知った梅の木が、道真の配所・筑紫まで一夜にして飛んでいった話は有名だ。いまでも「飛梅」として、福岡は太宰府天満宮に鎮座している。菅原さんが梅を飛ばしたのに対して、大串さんは藁屋を飛ばしてしまった。梅の木が飛ぶのだったら、藁屋だって飛ぶのだ。そう着想した大串さんの、春のようにおおらかな心を味わいたい。最近では藁屋も見かけなくなったが、三鷹市狐久保に一軒あって、毎日のようにバスの窓から見ている。「きれいに手入れされた屋根だけど、維持費がたいへんだろうなあ」と、ある日のバスの乗客。「あそこは大金持ちだから、あんな家残しておけるんだ」とは、もう一人の乗客。バスも会話も、早春の風に乗って藁屋の傍らを通り過ぎていく。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)


February 1622000

 山に雪どかつとパスタ茹でてをり

                           松永典子

日の「夏にしあれば」から、季節は一転して真冬へと……。実は、昨日の天気予報で「川鋭し」の故郷近辺に大雪警報が出ていたので、ぱっと掲句を思い出したという次第。もちろん私が子供だったころにパスタなんて洒落た食べ物はなかったけれど、饂飩(うどん)だっていいわけだし、作者の思いは時間を逆転しても十分に通用する。「どかつと」は雪とパスタの両方の量にかけられており、それだけでも作者の非凡な才能を認めざるをえない。加えて、素朴でのびやかな感覚が素敵だ。外の寒さと厨房の暖かさとの対比までは、少し俳句を齧った人には思いの至る発想だが、たいていはちまちまとした句になってしまいがち。ところが見られるように、作者は堂々としている。してやったりの小賢しさがない。内心では「してやったり」なのではあろうけれど(失礼)、それをオクビにも表に出さないという、いわば秘めたる力技の妙。きっと、この「どかつと」茹でられたアツアツのパスタは美味しかったでしょうね。と、思わずも作者に話しかけたくなるところに、真面目に言って、俳句的表現の必然不可欠性が存在する。私たちが俳句をないがしろにできない根拠が、質量ともにここに「どかつと」例証されている。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)




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