警察とは何なのか。いま、この問題をクリアにしなければならない。我々も警察もわかってない。




2000ソスN2ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1922000

 もやし独活鉄砲かつぎして戻る

                           高本時子

活(うど)は、関東武蔵野の名産。一昨日、武蔵野市で恒例の品評会と即売会が開かれ、知りあいが求めてきたもののお裾分けにあずかった。ひょろ長いので、句のように「鉄砲かつぎ」して持ち帰り(バスの中では、さすがにuprightに持たざるをえなかったけれど)、夕食時に間に合った。早春の香り。シャキシャキとした歯触りで、奥行きのある美味。生そのままで酒のサカナにしても似合うが、生産者は天麩羅にすると美味いよと言っている。それにしても「もやし独活」とは、言いえて妙だ。山野に自生する「山独活」に対してのネーミングで、特殊な栽培法により食べられる茎の部分をできるだけ長く伸ばすところから、「もやし」と言ったのである。ひょつとすると、正統山独活愛好派からの揶揄が入っている呼び名なのかもしれない。かの高村光太郎に「山うどのにほひ身にしみ病去る」がある。まさか独活を食べたせいで「病去る」となったわけではないのだが、早春の訪れを告げる「にほひ」に接して、体調よろしきはそのおかげだと感じている心情が嬉しい。よくぞ日本に生まれけり、である。(清水哲男)


February 1822000

 すきとおるそこは太鼓をたたいてとおる

                           阿部完市

明な孤独感の表出。……と書いてみると、これでよいような、どこか間違っているような。「そこ」は「底」でもあり「其処」でもあるだろう。このとき、太鼓はどんな太鼓なのだろうか。私は、玩具の楽隊が叩くような小さくて赤い太鼓を想像している。大の男がそれを規律正しい足取りで叩きながら通る姿は、かぎりなく狂気に近い正気な行為に見えて、自分の心にも「こういうところがあるな」と納得できる。誰でもが、主にその幼児性において、狂気すれすれの生を生きているのだと思うし、ある日突然、それはかくのごときイメージとなって脳裏に明滅したりする。この句のよさは、妙に文学的に身をやつしていないところであり、加えて暗さが微塵もない点にあるだろう。まさに、単純にして素朴に「すきとおる」のみの世界。この力強さは、一行詩と言えなくもない表現様式に、なお俳句であることを主張している。俳句の修練を通過していない表現者には、このような「ポエジー」は書けないのだ。一読、不思議な世界には違いないが、何度か反芻しているうちに、いつしか我が身になじんでくるという不思議。俳句の力。『にもつは絵馬』(1974)所収。(清水哲男)


February 1722000

 白梅に藁屋の飛んで来し如く

                           大串 章

屋の庭に満開の白梅。典型的な昔ながらの早春風景だ。吟行などでこの風景を目の前にして、さて、どんな句が作れるか。けっこう難しい。そこへいくとさすがにプロは違うなあと、掲句にうなる人は多いのではなかろうか。うなると同時に、思わずにやりともさせられてしまう。句が、かの菅原道真の「飛梅(とびうめ)」の歌「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」を踏まえているからだ。この歌を知った梅の木が、道真の配所・筑紫まで一夜にして飛んでいった話は有名だ。いまでも「飛梅」として、福岡は太宰府天満宮に鎮座している。菅原さんが梅を飛ばしたのに対して、大串さんは藁屋を飛ばしてしまった。梅の木が飛ぶのだったら、藁屋だって飛ぶのだ。そう着想した大串さんの、春のようにおおらかな心を味わいたい。最近では藁屋も見かけなくなったが、三鷹市狐久保に一軒あって、毎日のようにバスの窓から見ている。「きれいに手入れされた屋根だけど、維持費がたいへんだろうなあ」と、ある日のバスの乗客。「あそこは大金持ちだから、あんな家残しておけるんだ」とは、もう一人の乗客。バスも会話も、早春の風に乗って藁屋の傍らを通り過ぎていく。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)




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