寒い浅草での「余白句会」。仲見世通りはいつもながらの混雑ぶり。気持ちがよいほどタフな人々。




2000ソスN2ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2722000

 受験期や少年犬をかなしめる

                           藤田湘子

験期の日々の、なんとも名状しがたく、やり場のない重圧感。あの気分は、たぶん受験に失敗した者しか覚えていないのだろうけれど……。あのときに生まれてはじめて、大半の少年(少女)は「誰も助けてくれない」という社会的重圧に直面する。そんなときに心が向かうのは、家族や友人や教師といった人間にではなく、たいていは句のように相手が犬だったりする。犬は「たいへんだねえ」とも言わないし「がんばれよ」とも言わない。いつも通りの態度なので、かえって心が癒されるのだ。生臭くない淡々たる関係が、そこだけにある。いつもと変わらぬ日常性が生きている。その関係のなかで、しかし少年は人間だから、その関係性をいささか毀し加減に相手を「かなし」むということをする。普段よりも、余計に可愛がったりしてしまう。横目で見ている作者は、そのことをまた「かなし」んでいるという句の構造だろう。すなわち、そこが「かなしめり」と平仮名表記されている所以で、このとき「かなしめり」は「愛しめり」であり「哀しめり」でもあり、さらには「悲しめり」でさえあるのかもしれない。『途上』(1955)所収。(清水哲男)


February 2622000

 椿的不安もあるに井の蓋は

                           小川双々子

だ寒さの残る早春の光景。田舎で育った人には、きっと見覚えがあるだろう。庭の片隅に蓋のされた井戸があって、すぐ近くでは椿の花が凛とした姿で咲いている。井戸の蓋は、手漕ぎポンプを取り付ける支えのためと、ゴミが入らないようにするためだ。誰もが見慣れた光景だが、そのなんでもないところから、双々子はこれだけのことを言ってのけている。「凄いなア」と、ただ感嘆するばかりだ。「椿的不安」とは、凛として咲いてはいるのだが、いつ突然にがくりと花首が折れるかもしれぬ不安だ。ひるがえって、井戸の蓋はどうか。一見ノンシャランの風情に見えるけれど、考えてみると、蓋の裏面は奈落の底と対しているわけだ。その暗黒で計ることのできない下方への距離感は、想像するだに「板子一枚下は地獄」よりもずっと怖いだろう。いつ、突然にはるか下方の水面に落下するやもしれぬ。日夜、そんな「椿的不安」にさいなまれていないはずはない。なのに「井の蓋」は、いつ見ても平然としている。見上げたものよ。人間だとて、所詮はこの「井の蓋」と同じような存在だろう。かくのごとき境地を得たいものだと、作者は願っている。「地表」(1999年・11-12合併号)所載。(清水哲男)


February 2522000

 たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ

                           坪内稔典

っ、たんぽぽ(蒲公英)の「ぽぽのあたり」って、どこらへんなの(地方によっては、ちょっとエロチックな想像に走る人もいそうだ)。そう思った途端に、読者は作者の術中にはまっている。実体を指示するための言葉を、あっけらかんと実体そのものに転化させてしまう手法はユニークだ。詩の世界では見られなくもないけれど、俳句では珍しい。「どこと問われてもねえ」と、笑っているだけの作者の顔が浮かんでくるようだ。馬鹿馬鹿しいといえばそれまでだが、しかし、この句は確実に記憶に残る。その「記憶に残る」ということが、作者近年のテーマのようだ。句集の後書きに「簡単に覚えることができ、そして気軽に口ずさめる俳句は、諺にきわめて近い」と記されており、「言技師(ことわざし)こそが俳人」だと言っている。賛成だ。論より証拠(!!)。坪内稔典の人口に膾炙している句は、みんな諺のように覚えやすい。しかも、諺とは違って、中身はナンセンスの極地にある。こういう句は、よほど言葉が好きでないとできないだろう。そしてもう一方では、よほど人間が好きで、その機微に通じるセンスがないと……。ちなみに、連作「ぽぽのあたり」は「たんぽぽのぽぽのその後は知りません」で締めくくられている。はぐらかされたか。そこがまた楽しい。『ぽぽのあたり』(1998)所収。(清水哲男)




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