「現代詩手帖」3月号は辻征夫追悼号。小沢信男、鈴木志郎康、井川博年による座談会などを掲載。




2000ソスN2ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2822000

 春空の思はぬ方へ靴飛べり

                           守屋明俊

供時代の思い出。春の空を見ているうちに、ひょいと思い出している。ボールか何かを思い切り蹴飛ばしたら、ついでに靴までが脱げて飛んでいってしまった。ボールはあっちへ、靴はあらぬ方へと。私にも、覚えがある。今はそうでもないのだろうが、昔の子供は少し大きめの(ともすると、ブカブカの)靴を買い与えられたものだ。月星運動靴だったかなあ、そんなズック靴。成長がはやいので、ぴったりした靴だと、すぐに履けなくなってしまうからである。靴といえぱ忘れられないのが、高校に入学した春のことだ。当時の立川高校は入学できる地域が広く、多摩地区全体から志望することができた。西は檜原村あたりから東は武蔵野市あたりまで。で、私など西からの新入生は当然のようにズック靴を履いていったのだが、東からの連中はみな革靴を履いていた。口惜しいので口にこそ出さなかったけれど、かなりのショックを受けた。そんなことは、東の諸君は覚えていないだろうな。革靴を買ってもらったのは、大学に入ってからだった。何度も靴底を張り替えて履いていたものである。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


February 2722000

 受験期や少年犬をかなしめる

                           藤田湘子

験期の日々の、なんとも名状しがたく、やり場のない重圧感。あの気分は、たぶん受験に失敗した者しか覚えていないのだろうけれど……。あのときに生まれてはじめて、大半の少年(少女)は「誰も助けてくれない」という社会的重圧に直面する。そんなときに心が向かうのは、家族や友人や教師といった人間にではなく、たいていは句のように相手が犬だったりする。犬は「たいへんだねえ」とも言わないし「がんばれよ」とも言わない。いつも通りの態度なので、かえって心が癒されるのだ。生臭くない淡々たる関係が、そこだけにある。いつもと変わらぬ日常性が生きている。その関係のなかで、しかし少年は人間だから、その関係性をいささか毀し加減に相手を「かなし」むということをする。普段よりも、余計に可愛がったりしてしまう。横目で見ている作者は、そのことをまた「かなし」んでいるという句の構造だろう。すなわち、そこが「かなしめり」と平仮名表記されている所以で、このとき「かなしめり」は「愛しめり」であり「哀しめり」でもあり、さらには「悲しめり」でさえあるのかもしれない。『途上』(1955)所収。(清水哲男)


February 2622000

 椿的不安もあるに井の蓋は

                           小川双々子

だ寒さの残る早春の光景。田舎で育った人には、きっと見覚えがあるだろう。庭の片隅に蓋のされた井戸があって、すぐ近くでは椿の花が凛とした姿で咲いている。井戸の蓋は、手漕ぎポンプを取り付ける支えのためと、ゴミが入らないようにするためだ。誰もが見慣れた光景だが、そのなんでもないところから、双々子はこれだけのことを言ってのけている。「凄いなア」と、ただ感嘆するばかりだ。「椿的不安」とは、凛として咲いてはいるのだが、いつ突然にがくりと花首が折れるかもしれぬ不安だ。ひるがえって、井戸の蓋はどうか。一見ノンシャランの風情に見えるけれど、考えてみると、蓋の裏面は奈落の底と対しているわけだ。その暗黒で計ることのできない下方への距離感は、想像するだに「板子一枚下は地獄」よりもずっと怖いだろう。いつ、突然にはるか下方の水面に落下するやもしれぬ。日夜、そんな「椿的不安」にさいなまれていないはずはない。なのに「井の蓋」は、いつ見ても平然としている。見上げたものよ。人間だとて、所詮はこの「井の蓋」と同じような存在だろう。かくのごとき境地を得たいものだと、作者は願っている。「地表」(1999年・11-12合併号)所載。(清水哲男)




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