「白酒」なるものを飲んだことがない。甘酒でもなさそうだし、薄いドブロクみたいな味ですか。




2000ソスN3ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0332000

 われの凭る壁に隣は雛かざる

                           飴山 實

羽打ち枯らした浪人が、長いものを抱くようにして壁に凭(もた)れかかっている。もはや進退きわまったという姿。長屋の壁は薄いので、隣家で雛祭を寿ぐさんざめく笑い声などが聞こえてくる。ホーホケキョ。「もう、春か」。……というような情景では、まったくない(笑)。しかし、こんな情景に通じるような落魄の心持ちが、作者にはあったのだろう。この明暗の対比が、近代的抒情効果を生む仕掛けの正体だ。一方、隣の部屋には、笑いさざめく人たちの間に、こういう年老いた女性も静かに座っている。「来し方や何か怺へし雛の貌」(菅井富佐子)。毎春見慣れてきた雛の顔であるが、こうやってつくづく眺めていると、何か物言いたげなようであり、それを懸命に怺(こら)えているようである。さながら私の人生のように、言いたいことも言わずに、雛もここまで過ごしてきたのか。人形に感情移入できるのは、やはり女性に特有の才質の一つと言うべきだろう。今日飾られている雛人形には、雛の数だけ、それぞれの女性の思いがこもっているのだ。そう思うと、いかに私のごとき暢気な男でも、あらたまった気持ちにさせられる。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)


March 0232000

 ミユンヘンの木の芽の頃の雨の写真

                           京極杞陽

なる観光写真というのでもない。京極杞陽は、昭和十年(1935)から一年間、ヨーロッパに遊学している。日本への帰途、たまたま立ち寄ったベルリンで高浜虚子の講演を聞き、翌日開かれた日本人会による虚子歓迎句会にも出席。それが虚子との運命的な出会いとなった。作者はいま、その当時の写真に見入っている。早春のミュンヘンは、まだ日本よりも相当に寒い。しかも、雨が降っている。なつかしく眺めながら、撮影当時には気にもしていなかった雨に濡れた木の芽に視線がいき、そこから街全体のたたずまいや音や香りを思い出している。写された人物や背景の建物よりも、いまとなれば、ついでに写りこんでいる木の芽が、いちばん雄弁にミュンヘンを物語っているということだろう。こういうことは、よくある。記録は、閲覧するときの環境に応じて、いろいろに姿を変える。意味あいを変える。だから、あらゆる記録にはクズなどない。写りがよくないからと、ポイポイ写真を捨ててしまう女性がいるけれど、もったいないかぎりである。『くくたち・下巻』(1977)。(清水哲男)


March 0132000

 芽柳や傘さし上げてすれ違ふ

                           満田春日

が浅緑の芽を吹き始めた。毎年のことではあるが、春待つ心には嬉しいもの。降っている雨も、心なしかやわらかく感じられる。だから、混雑している道路でいちいち「傘さしあげてすれ違ふ」のも、冬場とは違い、むしろ楽しい気分なのだ。私などの世代には、ついでに「柳芽を吹くネオンの下で、花を召しませ……」という戦後の流行歌「東京の花売り娘」なども思い出されて、過剰な懐しさに誘われてしまう。「芽柳」の魔力である。もとより、作者はそんなことまで言おうとしているのではない。しかし、何ということもない句のようながら、早春の都会点描として、なかなかの腕前が示されている。掲句は、第一回「俳句界」新人賞の候補作になった「桃色月見草」30句(選考委員の黛まどかが三位に推薦している)のなかの一句だ。他にも「三月やまだ暖かきビスケット」などの佳句があり、淡彩風スケッチの魅力を十分に感じさせてくれている。今後に期待できる人だと思った。さて、はやいもので季は三月。焼き立てのビスケットのように、読者の皆さんにとって、やわらかくも香ばしい月でありますように。「俳句界」(2000年3月号)所載。(清水哲男)




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