蜴溽伐縲證ケ縺ョ句

March 0532000

 準急のしばらくとまる霞かな

                           原田 暹

急に乗っているのだから、長旅の途中ではない。ちょっとした遠出というところだ。ポイントの切り換えか、後からの急行を追い抜かせるためか、いずれにしても、数分間の停車である。急いでいるわけでもないので、春がすみにつつまれた周辺の風景を、作者はのんびりと楽しんでいる。急行だったら苛々するところを、準急ゆえの、この心のゆとり。車内もガラガラに空いていて、快適な環境だ。こんなときに私などは、どうかすると、このままずうっと停車していてほしいと思うときがある。時間通りに目的地に着くのが、もったいないような……。都会の「通勤快速」だとか「快速電車」だとかは、命名からしてあわただしい感じだけれど、「準急」とはよくも名付けたり。名付けた人は、単に「急行」に準ずる速さだからと散文的に考えたのだろうが、なかなかにポエティックな味がある。同じ作者に「折り返す電車にひとり日永かな」もあって、ローカル線の楽しさがにじみ出ている。「鉄道俳句」(?!)もいろいろあるなかで、地味ながら異色の作品と言ってよいだろう。ああ、どこかへ「準急」で行きたくなってきた。『天下』(1998)所収。(清水哲男)


June 2462003

 昼寝覚電車戻つてゐるやうな

                           原田 暹

語は「昼寝」で夏。昼寝から覚めた後で、一瞬「ここはどこ、私は誰」みたいな状態になることがある。そのあたりの滑稽を詠んだ句は多いけれど、電車の中とは意表を突かれた。車中でのうたた寝も、なるほど昼寝といえば昼寝か。これからの季節、こっくりこっくりやっている人をよく見かける。はっと目が覚めて窓外を見るのだが、どこを走っているのかわからない。おまけに、ぼおっとした頭で懸命に判断してみるに、なんだか目的駅とは反対の方向に「戻つてゐるやうな」気がする。ややっ、こりゃ大変だ、どうしよう……。と、ここで一気に眠気の吹っ飛ばないのが車中のうたた寝というもので、なお作者は車中の人に気づかれないよう平静を装いながら、必死に窓外に目をやっている。このあたりが、実に可笑しい。それもこれもが、私にも覚えがあるからで、こういうときに、次の駅であわてて飛び降りたりするとロクなことにはならない。たいていは、そのまま乗っててもよかったのだ。本当に戻ってしまったのは、一度だけ。ほとんど徹夜で飲んだ後、鎌倉駅から東京駅に向かっていたはずが、気がついたら逆方向の逗子駅だった。途中まで友人と一緒だったので、はじめから方向を間違えて乗ったわけじゃない。明らかに、ちゃんと東京駅に着いた電車が折り返してしまったのだった。誰か起こしてくれればよかったのにと、糞暑い逗子駅で東京行きを待つ時間の長かったこと。以来、終点で寝ている人を見かけたら起こすことにした。『天下』(1998)所収。(清水哲男)


October 26102003

 秋入日かちかち山に差しにけり

                           原田 暹

語は「秋入日(秋の日)」。「差しにけり」が秀逸だ。秋の夕日というと、どうしても釣瓶落しに意識が向きがちだが、秋だって夕日はちゃんと差すのである。日差しは夏場よりもずいぶんと弱々しいが、紅葉した山などに差すと、セピア色の写真ではかなわないような得も言われぬ情趣を醸し出す。「かちかち山」は実在しないから、むろん空想句だ。でも作者は、どこかでの実景から発想したのだろう。折しも秋の入日を正面から受けはじめた小さな山をみて、あっ「かちかち山」みたいだと思ったのだ。この誰もが知っている民話(昔話・お伽噺)は、いまどきの絵本などではマイルドに味付けされているけれど、元来は殺し合いの残酷なストーリーだった。いたずら狸を罠にかけ、狸汁にしようと天井から吊るしておくお爺さんからして残酷だし、巧みにお婆さんを騙して殴り殺し「ばばあ汁」をお爺さんに食べさせる狸の残忍さ。そして、お爺さんになり代わって狸をこらしめる白兎も、正義の味方かもしれないが、執拗にサディスティックに狸をいたぶりまくり、ついには泥舟もろとも沈めてしまうという陰湿さ。「かち栗」欲しさに狸が背負わされた柴に火をつけるべく、兎がかちかちと火打ち石を打っていると、狸が聞く。「かちかちって聞こえるけど、何の音だろうね」。「ここが『かちかち山』だからさ」と、兎。そんな会話の後に、転げ回って狸が苦しんだ山。そう自然に連想した作者は、実景のおそらくは名も無き平凡な山にも、数々の出来事が秘められていると感じたのだろう。このときに、赤い入日は民話の日差しとなっている。『天下』(1998)所収。(清水哲男)


December 14122003

 大根のぐいと立ちたる天気かな

                           原田 暹

練馬大根
語は「大根」で冬。収穫期から言う。大気は冷たいが快晴、すっきりとして気持ちの良い「天気」である。そんな冬の上天気を、大根畑の様子だけで描ききったところは見事だ。なかなか、こうは詠めない。畑を見たことのない人だと、「立ちたる」の状態がわかりにくいだろう。根菜の知識が災いして、根がすっぽりと地中に埋まっていると思ってしまうからだ。でもたしかに、大根は「ぐいと」立っている。品種にもよるけれど、根の白い部分が地表に出てくるのが普通で、いちばん出るものだと30センチくらいが見える。まさに「立つ」という言い方がふさわしい。作者は関西の人なので、どんな品種の大根だろうか。昨今は圧倒的に雑種が多いそうなので、特定は無理かもしれない。東京の有名な練馬大根も長年雑種に押しまくられていたが、ここのところ復活の動きが活発化してきた。見た目で言うと葉の広がりの大きいのが特徴である。何万年もの昔の富士噴火の灰が降り積もった関東地方の土(関東ローム層)の厚さは、深いところで七メートルほどもあるそうで、根菜類の生育に適している。大根を素材にした料理にもさまざまあるが、私の好物は素朴な味噌汁だ。繊六本に刻んだ大根以外には、何の具も入れない。小さい頃、母がよく作ってくれた。貧しかったので、他の具は入れようもなかったのだろうが……。寒い朝、ふうふう言いながらこいつを食べると、身体の芯から暖まった。写真は練馬区のHP「よみがえれ練馬大根」より借用。『天下』(1998)所収。(清水哲男)


June 1462004

 到着の遅れてをられ夏料理

                           原田 暹

語は「夏料理」。見た目にも涼しく、さっぱりした味の夏の料理の総称だ。特別な料理でなくても、たとえば冷奴や胡瓜もみなども含む。が、掲句の場合には「特別」な料理だろう。ままありがちだが、宴会の開始時間を過ぎても主賓がなかなか姿を現さない。句の主賓はかつての恩師か、会社を退職した元上司といったところか。みんなが集まって、もうすっかり料理も運ばれてきているというのに、招待した主賓を欠いては会をはじめるわけにもいかず、とくに幹事役は困惑する。ちょっと「遅れてをられ」るようで……などと、誰にもわかりきった言い訳をしながら、入り口の方をちらちらうかがったりしている。なにしろ料理が夏向きだけに、時間が経つにつれて冷やしたものの味は落ちてしまう。せっかく美しく添えられた氷片も、無惨に溶けていく。ビールも生温くなってくる。辛抱たまらず、一人が「そろそろはじめようか」と言い、「そうもいかないだろう」ともう一人が言う。この句の面白いところは、時間の経過とともに「遅れてをられ」の敬語に込められるニュアンスが変わっていくところだ。予定時間の十分後くらいまでだと、この敬語には主賓を心配する色合いがまだ濃いのだが、二十分後ともなると苛立ちの念が濃くなり、それ以上だと徐々に怒気が込められ、最後には呆れたと言わんばかりのニュアンスに転化してしまう。句のシーンは、いったい何分後くらいのことなのだろうか。そう想像してみると、待ちくたびれている人々には申し訳ないが、だんだん可笑しさがこみ上げてくる。臨場感あふれるとは、こういう句を指して言う。『天下』(1998)所収(清水哲男)


May 0552005

 頭より軽きボールや夏始まる

                           原田 暹

の上では、今日から夏だ。作者の体調、すこぶる良好と読める。天気も快晴だ。バレーボールだろうか。とにかく、野球のボールのように小さいものではない。それを両手で持ったときに、ふっと「頭より軽き」と感じた。普通は頭の重さなど意識することはまずないだろうが、このときの作者は感じたわけだ。これはボールの意外な軽さを言っていると同時に、頭の重さに身体の充実した感覚を象徴させているのだろう。すなわち、気力体力が良好であるがゆえのボールの軽さなのである。同じボールでも、調子の悪いときには重く感じられる。今日は、そんな感じがまったくない。さて、それではサービスエースとまいろうか。夏の始まりの清々しい気持ちが、一読伝わってきて心地よい。このとき、作者二十七歳.さもありなんと、うなずける年齢でもある。ボールと言えば、少年時代に憧れたものの一つだ。何にせよ、手作りの時代だったから、野球のボールにせよバレーボールのそれにせよ、本物のボールに触れる機会はなかなかなかった。バレーボールの本物に触れたのは、中学三年のときの体育の時間だったと思う。そのときは軽さ重さというよりも、見かけからすると意外に固いなと感じたことを良く覚えている。いまだにその触覚が残っているせいで、国際試合などでの猛スピードのやりとりを見ていると、痛っと思ったりしてしまう。「俳句」(1971年7月号)所載。(清水哲男)


November 21112014

 梟を眺め梟から眺め

                           原田 暹

は鋭いカギ状の短い嘴と強力な爪のある脚を持った夜行性の肉食鳥である。だから普段は動物園くらいでしか見られないが、一度利根川河畔で見たことがある。その時は目の前でカラスと組んず解れずの大格闘をしていた。何を間違ってか、昼間その姿を見せてしまったのである。カラスは夜間は動けなく、夜行性の梟に度々襲われるらしい。特に子育て中の子ガラスは標的である。それやこれやで昼間は立場が逆転、勝負は圧倒的にカラスが優勢となる。揚句は梟が2回、眺めが2回でこれを「を」と「から」で結んで出来上がった。確かに梟を見ているとあのまん丸い梟の目からも見られているのかも知れないと思う。この作者と梟の間合いがどこか可笑しい。『天下』(1998)所収。(藤嶋 務)


July 2272016

 昼寝覚電車戻つてゐるやうな

                           原田 暹

くある錯覚。以前は酷暑のおりは疲労がたまり夜の睡眠不足を補う意味で昼寝が奨励された。今ではビルも家庭も車内でも空調が行き届き昼は安眠の機会となっての昼寝である。電車の座席はとにかく寝心地がよい。そこでついつい居眠りに陥る。心底寝入ってはいないので次は何々駅のアナウンスではちらと目が覚める。作者の場合は進行中での目覚めだろうか睡眠の中に失っていた自分を取り戻したものの自分の立ち位置がはっきりしない。動いてはいるもののさてはて戻っているような気もするしという半分だけ覚醒の状態。隣りに並走している電車があれば余計ややこしくなる。追い付いたり追い越したりしている内にとろとろと混乱して眩暈がする。ある夏の眠たい午後の昼寝覚め、突如寝覚めて乗り越しに気が付いてあわてても後の祭りである。仮にふいと飛び降りても網棚に忘れ物などをしたら大事件となってしまう。他に<人日の茶山にあそべ天下の子><梟を眺め梟から眺め><蟬時雨駐在さんの留守二日>など所収。『天下』(1998)所収。(藤嶋 務)




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