マイクロソフトが発表した新ゲーム機。意外に前評判がよくない。どうせバグだらけだろう、とか。




2000ソスN3ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1232000

 猪が来て空気を食べる春の峠

                           金子兜太

(いのしし・句では「しし」と読ませている)というと、とくに昔の農家には天敵だった。夜間、こいつらに荒らされた山畑の無残な姿を、私も何度も見たことがある。農作物を食い荒らすだけではなく、土を掘り返して野ネズミやミミズなどを食うのだから、一晩にして畑はめちゃくちゃになってしまう。俳句で「猪」は秋の季語だが、もちろんそれはこうした彼らの悪行(?!)の頻発する季節にちなんだものだ。猪や鹿を撃退するために「鹿火屋(かびや)」と言って、夜通し火を焚いて寝ずの番をする小屋を設ける地方もあったようだが、零細な村の農家にはそんな人的経済的な余裕はなかった。せいぜいが、猟銃を持っているときに出くわしたら、それで仕留めるのが精いっぱい。仕留められた猪も何度も見たけれど、いつ見ても、とても可愛い顔をしているなという印象だった。日本種ではないようだが、いま近くの「東京都井の頭自然文化園」で飼われている猪族も、実に愛嬌のある顔や姿をしている。まともに見つめると、とても憎む気にはなれないキャラクターなのだ。だから、この句の猪の可愛らしさも素直に受け取れる。ましてや「春の空気」しか食べていないのだもの、私もいっしよになって口を開けたくなってくる……。『遊牧集』(1981)所収。(清水哲男)


March 1132000

 落第も二度目は慣れてカレーそば

                           小沢信男

語は「落第」で春。変な季語もあったものだが、学校の社会的位置づけが高かった時代の産物だ。いうところの「キャリア」を生み出すためのシステムだけに、逆に落伍者も大いに注目されたというわけである。落第した当人は、一度目はがっかりしてショボンとなるが、二度目ともなるとあきらめの境地に入り、暢気にカレーそばなんかを食っている。それでも、ザルそばなんかじゃなく、少しおごってカレーそばというあたりが、いじらしい。自分で自分を慰めているのだし、甘やかしてもいるからだ。私も、大学で二度落第した。一度目は絶対的な出席日数不足。二度目は甘く見て、田中美知太郎の「哲学概論」を落としたのが響いた。句の通りに、二度目でも確かに「慣れ」の気分になるものだ。学費を出してくれている父親の顔はちらりと思い出したが、深く落ち込むことはなかった。同病相哀れむ。同じ身空の友人たちと酒を飲みながら、「このまま駄目になっていくのかなあ」とぼんやりしていた。後に大学教授になる友人に「おまえらは怠惰なんや」と言われても、一向にコタえなかった。落第生には、優等生が逆立ちしてもわかりっこない美学のようなものが、なんとなくあるような気すらしていたのだ。石塚友二に「笛吹いて落第坊主暇あり」がある。「暇」は「いとま」。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


March 1032000

 天が下に春いくたびを洗ふ箸

                           沼尻巳津子

の訪れは、もちろん水の温んできた感触から知れるのだ。悠久の自然の摂理にしたがって、また春がめぐってきた。「天が下に」ちんまりと暮らしている人間にも、大自然の恩寵がとどけられた。そんな大きい時空間の移り行きのなかで、私は「いくたび」の春を迎えてきただろうか。小さな水仕事をしながら、ふと感慨が頭をよぎった。人の営みは小さいけれど、ここで作者はその小ささをこそ愛しているのだ。台所はしばしば俳句の題材に採り上げられるが、「天が下に」と大きく張って「洗ふ箸」と小さく収めたところが、作者の手柄である。水仕事だけではなくて、人間のすべてのちんまりとした営みを「天が下に」置いてみるという気持ちなのだろう。同じ作者の句に「一斉にもの食む春の夕まぐれ」の佳句があって、ここでも「天が下に」が意識されている。「全体」から「個」へ、はたまた「個」から「全体」へと。そうしたスケールの、絶妙な出し入れの才に秀でた俳人だと思う。『背守紋』(1988)所収。(清水哲男)




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