日産社長交代。私の居住地近辺には「日産通り」と言われた道もあり、まんざら他人事でもない。




2000ソスN3ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1832000

 法隆寺からの小溝か芹の花

                           飴山 實

者の飴山實さんが、一昨日(2000年3月16日)山口で亡くなった、享年七十三歳。面識はなかったが、学生時代に第一句集『おりいぶ』(1959)という、およそ句集らしからぬタイトルに魅かれたこともあって愛読した俳人だ。当時の飴山實は「女工等に桜昏れだす寒い土堤」などの社会性のある抒情句を得意としていて、影響で私も同じような詩の世界を志向した。私のはじめての詩集『喝采』(1963)にはその痕跡が拭いがたく歴然としており、詩人の中江俊夫さんに「どっちつかずで中途半端」と評されたのも、いまは懐しい思い出である。その後の飴山さんは見られるとおりの句境を得られ、独自の地歩を築かれた。句の舞台は、早春のいかるがの里。法隆寺を少し離れた道端の小溝に可憐な芹の花が咲いているのを見つけ、流れる清冽な水が法隆寺に発しているかと思い、そこに悠久の時間を感じている。千年の昔にも、いまと変わらぬ光景があったのだ、と。飴山さんは「酢酸菌の生化学的研究」で、日本農芸化学会功績賞を受けた学者でもあった。合掌。『次の花』(1989)所収。(清水哲男)


March 1732000

 鶏追ふやととととととと昔の日

                           摂津幸彦

面的にも面白い句だが、写生句でもある。戦後しばらくの間は、競うようにして鶏を飼ったものだ。少しでも、栄養不良を解消しようと願ってのこと。だから「昔の日」なのである。夜の間は鶏舎に収容しておいて、朝方に卵を生ませる。昼間は運動を兼ねてそこらへんの物を食べさせようというわけで、放し飼いにした。あのころは、表のどこにでも鶏がいた。まだ「バタリー方式」だなんて酷薄な飼い方も、一般には知られてなかった(私は百姓の息子だったので、雑誌「養鶏の友」で知ってましたけどね、エヘン)。「とととととと」は、そんな鶏たちの走り回る様子の形容であると同時に、夕刻に彼らを鶏舎に追い込むときの「とぉとぉとぉ……」という掛け声だ。なぜ「とぉとぉとぉ、ととととと」と言って追ったのか、その謂れは知らない。馬に止まれと命令するときに使う「ドウドウ」にしてもそうだが、誰か動物との対話に長けた先達の発明語なのではあるだろう。我が家は三十羽ほど飼っていたので、夕刻に何度「とぉとぉとぉ」を連呼したことか。鶏舎に追い込むのは、子供の仕事だった。ちょっと哀愁を帯びたトーンのこの掛け声を、京都の詩人・有馬敲さんが自演して、フォーク全盛時代にレコード化したことがあり、いまでも思い出して聞くことがある。過ぎ去ればすべて懐しい日々……。と、これは亡くなった岡山の詩人・永瀬清子さんの著書のタイトルである。『鹿々集』(1996)所収。(清水哲男)


March 1632000

 水温む赤子に話しかけられて

                           岸田稚魚

魚、最晩年(享年は七十歳だった)の句。「赤子」は身内の孫などではなく、偶然に出会った他家の赤ちゃんと解したい。少年時代から壮年期にいたるくらいまで、とりわけて男は、こうした場面には弱いものだ。たまたま電車やバスのなかで、乗りあわせた赤ちゃんと目があったりすることがある。オンブやダッコをしている母親はあっちの方を向いているので、赤ちゃんはこっちの方に関心を抱くのだろう。ときに声をあげて、なにやら挨拶(?)してくれるのだが、当方としては大いにうろたえるだけで、とても返答することなどできはしない。といって、むげに目をそらすわけにもいかないので、曖昧な笑いを浮かべたりするだけ。なんとも、情けない気分。しかし妙なもので、五十歳にかかったあたりから、だんだんと小声ながらも、そんな赤ちゃんに応接ができるようになってくる。応接していると、むしろ嬉しくなってくるのだ。いまは、このことの心身的な解釈はしないでおくが、句の眼目は自然の「水温む」よりも、作者自身の「気持ちの水」が「温む」ことで「春」を感じているところにある。遺句集『紅葉山』(1989)所収。(清水哲男)




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