詩を二つ書いて「俳句の毒」がまわっていると感じた。俳句的な座りの良さを求めてしまうのだ。




2000ソスN3ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2132000

 春の蛇座敷のなかはわらひあふ

                           飯島晴子

まえられているのは「蛇穴を出づ」という春の季語(当歳時記では、ここに分類)だ。冬眠していた蛇が、穴から這い出してくることを言う。したがって、この蛇はひさしぶりの世間におどおどしている。ぼおっともしている。そこへ、座敷のほうからにぎやかな笑い声が聞こえてきた。笑い声が聞こえてきた段階で、蛇は作者自身と入れ替わる。途端に、すうっと胸の中に立ち上がってくる寂寥感。人がはじめて寂しさを覚えるときの、あの仲間外れにされたような、誰もかまってくれないような孤独感を詠んでいるのだ。実存主義とは何かという問いに答えて、ある人が「電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのも、みんな私のせいなのよ」みたいな思想だと言ったことがある。句の気分は、その類の揶揄を排した実存主義の心理的感覚的な解剖のようにも、私には写ってくる。蛇が大嫌いな人でも、句の世界はしみじみと納得できるだろう。この季語には、美柑みつはるに「蛇穴を出て野に光るもの揃ふ」、松村蒼石に「蛇穴を出づ古里に知己少し」などの多くの佳句もあるが、蛇と作者がすうっと入れ替わる掲句の斬新な発想には、失礼ながらかなわないと思う。『春の蔵』(1980)所収。(清水哲男)


March 2032000

 春一番来し顔なればまとまらず

                           伊藤白潮

春以降はじめて吹く強い南風が「春一番」。元来は、壱岐の漁師の言葉だったという。吹く風の勢いや方角に、並外れた神経を使って生活している人たちも、たくさんいるのだ。それが「春一番」ともなると、とてもキャンディーズの歌のように暢気にはなれない暮らし……。句の「まとまらず」は卓抜な表現だ。思わず、膝を打った。「ひどい風ですねえ」と入ってきた人。強い風のなかを歩いてきたので、髪は大いに乱れ、しかめっ面にして吐く息もいささか荒い。コンタクトを使っている人だったら、おまけに涙さえ流しているだろう。そんな人の顔つきを一瞬のうちに「まとまらず」と活写して、句が見事に「まとまっ」た。なるほど、人間の顔は時にまとまっていたり、まとまっていなかったりする。江戸っ子風に言うと「うめえもんだ」の一語に尽きる。こういう句に突き当たることがあるから、俳句読みは止められない。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


March 1932000

 枕頭に陽炎せまる黒田武士

                           高山れおな

田武士は、言うまでもなく「酒は飲め飲め……」の「黒田節」に出てくる福岡は黒田藩の豪傑だ。歌われているのは、母里 (もり)太兵衛なる人物。大杯になみなみと注がれた酒を一気に飲み干したことから、小田原攻めの功績で福島正則が秀吉から拝領した名槍を褒美にもらったという、イッキ飲みの元祖である。若年のころの私は、「日の本一のこの槍を、飲み取るほどに」とは変な歌詞だなと思っていた。槍が飲めるのか、比喩にしても無理がある、と。でも、何のことはない。「飲んで、(その結果として)取る」という意味だったのだ。句は「飲み取った」あとの太兵衛の様子を詠んでいる。この着眼が面白い。さすがの酒豪もマイってしまって、明るくなっても起きられずにグーグー眠っている。既にして日は高く、何やらもやもやと怪しいゆらめき(陽炎)が、太兵衛の枕頭に迫っているではないか。素面(しらふ)であればすぐさま跳ね起きるところだが、ただならぬ気配を察知することもなく、いぎたなく眠りこけている黒田武士……。春ですなあ、という感興だ。ちなみに「黒田節」が全国的に有名になったのは、 1943 年に赤坂小梅がレコードに吹き込んでから。雅楽「越天楽(えてんらく)」の旋律が使われている。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男)




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