国会図書館が蔵書目録220万冊分をネットで公開。自分の名前で引いてみたら38件、うち7件は別人。




2000ソスN3ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2332000

 春の月水の音して上りけり

                           正木ゆう子

か、あるいは大きな河の畔での情景だろう。水に姿を写しながら、ゆっくりと上るおぼろにかすむ月。周辺より聞こえてくる水の音は、さながら月が上っていくときにたてている音のようである。掲句を写生句と見れば、このような解釈も成り立つが、しかし、作者はむしろ幻想に近い作品と読んで欲しいのではあるまいか。句の姿勢からして難しい言葉を使っていないし、できるだけ俗世界に通じる具象を排除したがっているように思えるからだ。すなわち、ここでは本当にかすかな水音をたてながら、月が上っているのだと……。だから、月がおぼろに見えるのは、水に濡れているせいなのだ。無数の水滴をまとっている月だからなのである。それにしても、水の音をさせながら上ってくる月とは、なんという美しい発見にして発想なのだろう。もってまわった表現をすることもなく、ここまで大きな幻想世界を描き出した作者に脱帽したい。これからの俳句での抒情の地平が、まだ大きく広がっていく可能性のあることを、雄弁に示唆している句だとも言える。一読感心。「俳句研究」(2000年2月号)所載。(清水哲男)


March 2232000

 連翹の奥や碁を打つ石の音

                           夏目漱石

には黄色い花が多い。連翹(れんぎょう)もその一つだ。渡辺桂子に「連翹の何も語らず黄より葉へ」とあるように、早春、葉の出る前に鮮黄色の四弁花をびっしりと咲かせる。これから咲きはじめる地方もあるだろう。句景は、まことに長閑。通りかかった連翹の咲く家のなかから、パチリパチリと石を置く音がしている。暖かいので、縁側で打っているのかもしれない。この句を読んで、母方の祖父を思い出した。リタイアした後は、毎日のように碁敵の家にいそいそと出かけていた。そんなに面白いものなら教えて欲しいと頼んでみたら、「学生はこんなもの覚えるもんじゃない」とニベもなかった。「時間ばかりかかって、勉強の邪魔になる」というのが、彼の拒絶理由であった。そこで私はひそかに入門書を買ってきて、なんとか置き方を覚えたところで、悪友と一戦まじえてみることにした。二人ともド素人だから、いま思い出しても悲惨な戦いだった。要するに、力の限りのねじり倒しっこ。加えて私は短気なので、辛抱ということを知らない。まるで碁にならないのである。性に合わないと間もなく悟り、すっぱり止めてから四十年。『漱石俳句集』(1990・岩波文庫)所収。(清水哲男)


March 2132000

 春の蛇座敷のなかはわらひあふ

                           飯島晴子

まえられているのは「蛇穴を出づ」という春の季語(当歳時記では、ここに分類)だ。冬眠していた蛇が、穴から這い出してくることを言う。したがって、この蛇はひさしぶりの世間におどおどしている。ぼおっともしている。そこへ、座敷のほうからにぎやかな笑い声が聞こえてきた。笑い声が聞こえてきた段階で、蛇は作者自身と入れ替わる。途端に、すうっと胸の中に立ち上がってくる寂寥感。人がはじめて寂しさを覚えるときの、あの仲間外れにされたような、誰もかまってくれないような孤独感を詠んでいるのだ。実存主義とは何かという問いに答えて、ある人が「電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのも、みんな私のせいなのよ」みたいな思想だと言ったことがある。句の気分は、その類の揶揄を排した実存主義の心理的感覚的な解剖のようにも、私には写ってくる。蛇が大嫌いな人でも、句の世界はしみじみと納得できるだろう。この季語には、美柑みつはるに「蛇穴を出て野に光るもの揃ふ」、松村蒼石に「蛇穴を出づ古里に知己少し」などの多くの佳句もあるが、蛇と作者がすうっと入れ替わる掲句の斬新な発想には、失礼ながらかなわないと思う。『春の蔵』(1980)所収。(清水哲男)




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