April 012000
万愚節ともいふ父の忌なりけり山田ひろむ今日という日に、このような句に出会うとシーンとしてしまう。偶然とはいえ、父親の命日とエープリル・フールが同じだったことで、作者は世間にいささか腹を立てている。「ともいふ」に、その気持ちがよくあらわれている。たとえば元日に亡くなった身内を持つ人もやりきれないだろうが、万愚節が忌日とは、もっとやりきれないかもしれない。軽いジョークの飛び交う日。人々が明るく振るまう日。そういうことになっている日。しかも、四月馬鹿「ともいふ」日である。父親を悼む心に、世の中から水をかけられているような気分がするだろう。ご同情申し上げる。四月一日の句で圧倒的に多いのは、掲句の作者を嘆かせるような都々逸的、川柳的な作品だ。「船酔の欠食五回四月馬鹿」(大橋敦子)しかり、「丸の内界隈四月馬鹿の日や」(村山古郷)またしかりだ。後者は、四月馬鹿の日にも、せっせと生真面目に働く丸ノ内界隈のサラリーマンたちを皮肉っている。ところでついでながら、Macユーザーの方は本日の「アップルルーム」を見てください。私の好きな真面目なサイトです。でも、今日のコラムやバナー広告は、全部ウソで塗り固められているはずですから。(清水哲男) January 082001 読初の葩餅の由来かな大橋敦子元来の「読初(よみぞめ)」は、新年にはじめて朗々と音読することを言った。男は漢籍、女は草紙などを読み上げたという。このデンからすると、私の場合は元日正午のニュース原稿読みとなる。戦後もしばらくの間は音読の習慣が残っており、毎朝学校に行く前の子供らの声があちこちから聞こえてきたものだが、いつしか廃れてしまった。いまのように黙読が主流の時代は、存外と短いのである。音読の教育的効果には高いものがあり、意味などわからなくとも、まずは音で身体に文字や文章を覚えこませる。そうやって身に付けた言葉は、いつの日か、意味を伴って開花する。例えて言えば、子供の頃に覚えた大人の唄の意味が、ある日突然に了解できるのと同じことだ。たぶん揚句では「黙読」だろうが、これを昔ながらの音読ととらえてみるのも一興だ。「葩餅(はなびらもち)」は正月のものだし、作者はさしせまっての必要があって由来を調べたのだろう。ならば、これを「読初」にしてしまおうと、家人の耳を気にしながら小声で読んでいる。あるいは、逆に家人か会合での誰かに読み聞かせた後で、「あっ、これが読初になった」と気がついたのかもしれない。。音読と解すれば、そんなほほ笑ましい情景が浮かんでくるので、私は強引に音読ととっておきたい気分だ。なお「葩餅」とは「餅または団子の一種で花弁の形をしたもの。特に、薄い円形の求肥(ぎゅうひ)を二つ折りにした間に、牛蒡(ごぼう)の蜜漬、白味噌、小豆あずきの汁で染めた菱形の求肥を挟んだものが著名で、茶道の初釜(はつがま)に用いる」と『広辞苑』にある。『葩餅』(1988)所収。(清水哲男)
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