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April 0142000

 万愚節ともいふ父の忌なりけり

                           山田ひろむ

日という日に、このような句に出会うとシーンとしてしまう。偶然とはいえ、父親の命日とエープリル・フールが同じだったことで、作者は世間にいささか腹を立てている。「ともいふ」に、その気持ちがよくあらわれている。たとえば元日に亡くなった身内を持つ人もやりきれないだろうが、万愚節が忌日とは、もっとやりきれないかもしれない。軽いジョークの飛び交う日。人々が明るく振るまう日。そういうことになっている日。しかも、四月馬鹿「ともいふ」日である。父親を悼む心に、世の中から水をかけられているような気分がするだろう。ご同情申し上げる。四月一日の句で圧倒的に多いのは、掲句の作者を嘆かせるような都々逸的、川柳的な作品だ。「船酔の欠食五回四月馬鹿」(大橋敦子)しかり、「丸の内界隈四月馬鹿の日や」(村山古郷)またしかりだ。後者は、四月馬鹿の日にも、せっせと生真面目に働く丸ノ内界隈のサラリーマンたちを皮肉っている。ところでついでながら、Macユーザーの方は本日の「アップルルーム」を見てください。私の好きな真面目なサイトです。でも、今日のコラムやバナー広告は、全部ウソで塗り固められているはずですから。(清水哲男)


April 0242000

 うまや路や松のはろかに狂ひ凧

                           芝不器男

事としての凧揚げの季節は、地方によってまちまちだ。長崎は四月、浜松は五月など。俳句では春の季語としてきた。句の凧は行事には無関係で、たまたま揚がっていた凧を目撃している図。「うまや路(じ)」は「駅路」と書き、宿場のある街道のこと。作句された場所も年代もわかっており、不器男の住んだ伊予の山峡沿いの街道で、1928年(昭和三年)に詠まれた句である。宇和島からの物資輸送に使われた街道筋の宿場町だ。風が強い日だったのだろう。街道の松の木のはるか彼方に、上下左右に激しく動き回る凧が小さく見えている。悠々と揚がっていれば、いかにも春らしいのどかな光景だが、凧が狂っているので、作者は落ち着かない。のどかなはずの光景を、遠くの凧が引っ掻いている。いささかオーバーに言えば、作者の近代的不安を極めて古典的な表現様式で言い当てた句と解釈できる。自然に「絶妙の技」という言葉が浮かんでくる。この句を得た二年後に、不器男は二十七歳にも満たぬ若さで亡くなった。作句期間も四年ほどという短さ。その余りある才を惜しんで、没後四年目に横山白虹が限定三百部の『不器男句集』を編み、百七十五句が収められた。(清水哲男)


April 0342000

 奇術にして仁術の俳パッとさくら

                           原子公平

くら賛歌であると同時に俳句賛歌でもある。俳句には元来、その短さゆえに「奇術」のようなところがあり、たったの十七文字が悠に百万言に勝ったりする。小さなシルクハットから、鳩がパッパッと何羽も飛び立ったり、万国旗がゾロゾロと出てきたりするように、信じられない現実を突きつけてくる。しかも、上質の「俳」は読者の心を癒し、励まし、喜ばすなど、その「仁術」的効果もはかりしれない。「さくら」とて、同じこと。「奇術」のようにあれよという間に咲き、「仁術」のように人の心を浮き立たせる。このとき「さくら」は、天然の俳人なのだ。自然詠のかたちをとりながら、句自体が一つの俳論になっているのもユニーク。長年のキャリアがあってこその、これは作者の「奇術」である。原子さんは、最近車イスの人になられたと仄聞した。「俳句研究」誌に連載されている[わたしの昭和俳句]は、近来まれに見る面白い読み物だ。私的俳壇史だが、社会的な時代背景の提示にあたっての、素材の適切な取捨選択ぶりには唸ってしまう。そのことによって、登場人物がみな輝いている。これほどに読ませる俳壇史が、これまでに書かれたことがあったろうか。俳句に興味のない人までをも、引き込んでしまう書き振りだ。これまた「奇術」にして「仁術」と言うべきか。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


April 0442000

 どことなく傷みはじめし春の家

                           桂 信子

わゆる春愁には、このような暮らしの上の心配も入り込んでくる。「どことなく」と言うのだから、具体的に家のどこかが「傷(いた)みはじめ」たというわけではない。「どことなく」なんとなく、どこなのだかよくはわからないのだが、どこかが確実に傷んできた気配がするのだ。だから、緊急に修理する必要もないわけだが、「どことなく」不安にもなってくる。暖かい光のなかの、一見平和な環境にある「春の家」だからこそ、この漠然たる不安が際立つ。句全体の味わいとしては、しかし、「どことなく」ユーモラスだ。ここに、みずからの漠然たる不安を客観視できる作者の、したたかな腕前を感じさせられる。春愁におぼれない強さ。あるいは、春愁の甘い響きに飽きてしまった諦念が、ぽろりと、むしろ不機嫌主導でこぼれ落ちたのかもしれない。いずれにしても、単純の極にある言葉だけで、これだけのことを言えた作者の才質は素晴らしい。「俳句研究年鑑」(1994)の自選句欄で見つけた。すなわち、作者自信の一句である。(清水哲男)


April 0542000

 山門を出れば日本ぞ茶摘唄

                           田上菊舎

上菊舎(たがみ・きくしゃ)は江戸期の俳人、女性。まだ茶摘みのシーズンには早いが、くさくさすることの多い当今故、清新の気を入れたいがための選句である。読者諸兄姉には、以て諒とせられよ。この「山門」は、京は洛外宇治の黄檗山万福寺のそれ。万福寺の開祖は、明の僧・隠元である。上野さち子『女性俳句の世界』(岩波新書)によると「当時の黄檗山は、中国文化淵叢の地として文人憧憬の場であった」そうだから、建物をはじめとする万福寺の中国的雰囲気に酔った菊舎の心持ちは、十分に推察することができる。中国文化の毒気にあてられたごとくに山門まで出てきたとき、どこからともなく風に乗って聞こえてきた茶どころ宇治の「茶摘唄」。そこで彼女ははっと我に帰り、思わずもここは「日本ぞ」と口をついて出てしまった。吹き渡るみどりの風が、頬に心地よい。そして、それよりも何よりも、私は句の「日本」という言葉の美しさに注目する。ここに見られるのは、国粋主義者が信奉する「日本」でもなければ、近代の国際競合に薄汚れた「日本」でもない。絢爛たる中国文化をよしとした上での、庶民の安住の場所としての「日本」なのだ。俳句で「日本」が使われる例は少ないけれど、こういう「日本」なら今後も大歓迎したい。しかし一方で、もはやこのように美しい「日本」の言語的実現はあり得ないとも思う……。(清水哲男)


April 0642000

 畝はしづかに集まり隆まり入学す

                           大槻紀奴夫

の春も、おびただしい数の「入学」句が作られるのだろう。ただし失礼ながら、そのほとんどは「親ばか」句で占められるだろう。作者の気持ちはわかる。が、俳句として第三者の鑑賞に耐えうる作品となると、なかなかお目にかかれない。数多の歳時記を繙いても、たくさん作られている割には例句も少ないし、佳句も寥々たる始末だ。そんななかで、掲句は群を抜いて高いレベルにあると思う。昔の「しづかな」農村の「しづかな」入学風景だ。子供の緊張や親の喜びを直接に詠まずに、学校までの道筋の様子を淡々と描いている。淡々と描いたことにより、かえって「入学」の緊張や喜びが、よく伝わってくる。このとき、田畑の畝(うね)の起伏は、入学児とその親が学校まで歩いていく途中の風景そのままの変化である。と同時に、歩いていく者の胸中の変化でもある。畝が隆まりきったところに学校があり、校門をくぐる者の胸の内の隆まりも、そこでピークに達する。そこで、作者と入学児は別々に定められた場所に別れるわけで、途端に句は「入学す」と落着した……。けだし、「入学」句中の白眉と言うべきだろう。『角川版・俳句歳時記』(1974)所載。(清水哲男)


April 0742000

 つくねんと木馬よ春の星ともり

                           木下夕爾

が暮れて、公園には人影がなくなった。残されたのは、木馬などの遊具類である。もはや動くことを止めた木馬が、いつまでも「つくねんと」一定の方向に顔を向けてたたずんでいる。いつの間にか、空では潤んだような色の春の星が明滅している。「ああ、寂しい木馬よ」と、作者は呼びかけずにはいられなかった。一般的な解釈は、これで十分だろう。しかし、こう読むときに技法的に気になるのは「つくねんと」の用法だ。人気(ひとけ)のない場所での木馬は、いつだって「つくねん」としているに決まっているからである。わざわざ念を押すこともあるまいに。これだと、かえって作品の線が細くなってしまう。ところが、俳句もまた時代の子である。この句が敗戦直後に書かれたことを知れば、にわかに「つくねん」の必然が思われてくる。実は、この木馬に乗る子供など昼間でも一人もいなかったという状況を前提にすれば、おのずから「つくねん」に重い意味が出てくるのだ。敗戦直後に、木馬が稼働しているわけがない。人は、行楽どころじゃなかったから……。したがって彼は、長い間、ずうっとひとりぽっちで放置されていたわけだ。そして、この先も二度と動くことはないであろう。つまり「つくねん」はそんな木馬の諦観を言ったのであり、諦観はもちろん作者の心に重なっている。空だけは美しかった時代のやるせないポエジー。『遠雷』(1959)所収。(清水哲男)


April 0842000

 地にぢかに居る故の酔ひ花莚

                           上野 泰

莚(はなむしろ)も、いまや青いビニール・シートと化しているが、それは問わない。地面に「ぢかに」座ったときの感触は、日常生活の習慣から逸脱していることもあり、違和感が伴うものだ。かなり気温の高い日でも尻の下の「地」は冷たいし、なんだか知らないが、とても妙な気持ちがする。その感触から来る感じ方もおそらくは人さまざまで、ゆったりとした気分になれる人もいれば、いつまでも落ち着かない人もいるだろう。作者は後者の気分に近く、落ち着かない酒に、少し悪酔いしてしまった、あるいは意外にも早く酔いすぎてしまったというところか。句が、いやに理屈っぽいのも、そのせいである。日頃のペースで機嫌よく酔えたのだったら、こんなに理屈っぽく締めくくるわけがない。だからわざわざ「花莚」を句のなかに持ちだして、八つ当たりしている趣きすら感じられる。今日の東京あたりは、絶好の花見どき。最高の人出が予想される。なかには、悪酔いする人も必ずいるはずだ。でも、その誰もかれもが浮かれて飲みすぎての悪酔いと見るのは浅薄で、実は作者のように、神経から先に変に酔ってしまう人も少なくないということである。一読、異色の句ともうつるが、実はまっとうなことをまっとうに述べている句。『一輪』(1965)所収。(清水哲男)


April 0942000

 夜櫻のぼんぼりの字の粟おこし

                           後藤夜半

たまんま、そのまんま。だが、なぜか心に残る。夜半の初期(二十代だろう)には、このような小粋な句が多かった。「見たまんま、そのまんま」だが、目のつけどころに天賦の才を感じる。夜桜見物。誰でもぼんぼりにまでは目がゆくが、書かれている広告文字にまでは気が及ばない。ぼんぼりの「粟おこし」は単なる文字でしかないけれど、こうやって句に拾い上げてやると、春の宵闇のやわらかな感覚に実によくマッチしてくるから不思議だ。ここは、やはり「粟おこし」でなければならないのであって、他の宣伝文字のつけ入る余地はあるまい。ここらあたりが、短い詩型をあやつる醍醐味である。夜半は明治生まれで、生粋の大阪人。生涯、大阪の地を離れることはなかった。だから、掲句はよき時代の大阪の情緒を代表している。いつもながらの蛇足になるが、「桜」の旧字の「櫻」というややこしい漢字を、昔の人は「二階(二貝)の女が気(木)にかかる」と覚えた。こう教わると、女性の場合は知らねども、男だったら一度で覚えられる。いや、忘れられなくなる。庶民の小粋な知恵というものだろう。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)


April 1042000

 そんなことよく思ひつく春の水

                           岡田史乃

て、「そんなこと」とは、どんなことなのか。「そんなこと」は、書いてないのでわからない。 わかることは、「そんなこと」が「そんな馬鹿なこと、どうでもよいこと」に近い中身であろうということだけ。もしも「そんなこと」が、心より賛嘆すべき内容を持っていたとしたら、「春の水」と照応させたりはしないはずだ。水温む候、作者の機嫌はすこぶるよろしく、「そんなこと」にも立腹せずに微笑して応えている。また、あなたの馬鹿話がはじまった。それにしても、次から次へと、よく「そんなこと」を思いつく人であることよ。わずらわしい時もあるけれど、今日はむしろ楽しい感じだ。目の前には、豊かな春の日差しを受けてキラキラと輝く水が流れている。全て世は事もなし。束の間ではあるかもしれないが、至福の時なのだ。ところで、句の成り立ちを作者の立場になって考えてみると、上中の十二文字は素直にすらりと出てきたはずだが、さあ、下五字をどうつけるかには少なからず腐心したにちがいない。それこそ「春の水」を「思ひつく」までには、相当に呻吟したと推察される。すなわち、突然口を突くように出てきた上中のフレーズを、簡単に捨てるには忍びなかったということ。反対に、実は一切そんな苦労はなかったのかもしれないが、長年俳句を読んでいると、つい「そんなこと」までをも気にかけてしまう。ビョーキである。史乃さん、間違ってたらごめんなさい。『ぽつぺん』(1998)所収。(清水哲男)


April 1142000

 山吹や根雪の上の飛騨の径

                           前田普羅

羅は、こよなく雪を愛惜した俳人だ。根雪の径は、さぞや歩きにくいことだろう。春とはいえ、まだ寒気も厳しい。「道」でも「路」でもない、飛騨の細く曲がりくねった山「径」である。黙々と歩いていくうちに、作者は咲きそめたばかりの可憐な山吹の花を認めた。根雪の白と山吹の花の黄。目に染みる。まさに「山吹や」の感慨が、ひとりでに胸中に湧いてくるではないか。心が洗われる美しい句だ。飛騨の土地を、私はよく知らない。一度だけ飛騨高山を訪れたことがあるが、季節は初秋であった。高山で「オーク・ヴィレッジ」という木工工房を開設したばかりのIさんに会うためだった。数えてみたら、もう二十年も前のことになる。Iさんは早稲田の理工を出てから、途中で一念発起して木工の世界に飛び込んだ人。「脱サラ」のはしりと言ってもよかろうが、彼のさわやかな人柄ともあいまって、飛騨高山の自然も人情も、とても好ましかった。その折りに、百年はもつ木机を、いつか私に経済的な余裕ができたら作ってもらう約束をしたような覚えがある。でも、いまだに私はぺなぺなの既製品の机にしがみついている体たらくで、注文をする余裕を持ちえていない。句には無関係だが、以来、そんなわけで飛騨と聞くとどきりとする。『雪山』(1992)所収。(清水哲男)


April 1242000

 次の樹へ吹き移りゆく杉花粉

                           右城暮石

戦後の一時期は、全国的に杉の木の植樹奨励時代でした。小学生だった私たちも授業の一環として、よく山に出かけて植えさせられたものです。そんなわけで、私などは四囲を杉に囲まれて育ちました。「杉の花」(春の季語)は花としては地味ですが、花粉の飛ぶ様子には凄いものがあります。風が吹くと、さながら煙のように飛散し移動し、この句はよくその様子をとらえています。圧倒的な飛散の光景は、まさに「吹き移りゆく」というしかありません。しかし、この様子がまさか後になって、「花粉症」なるアレルギー症状を引き起こすなど想像の埒外でした。幸いにも、私は花粉症とは無縁で来ていますが、周囲には今春になって突然発症した人もいて、お気の毒です。最近の歳時記のなかには、季語として「花粉症」を独立した項目に登録している本もありますし、句も数多く作られるようになってきました(当歳時記では「杉の花」の小項目に分類)。花粉症の方は見るのもいやかと思いますが、例句を二句あげておきます。「七人の敵の一人は花粉症」(伊藤白湖)、「花婿がよもやの花粉症なりし」(大庭三千枝)。いずれも、花粉症ではない作者が戸惑っている図ですね。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


April 1342000

 花びらの一つを恋ふる静電気

                           石田郷子

つの間にか、桜の花びらが一つ洋服についているのに気がついた。静電気の作用によるものだ。どこでついたのだろうか。思い巡らしているうちに、小さな薄い紅の花びらが可憐に見えてき、いとおしくなってきた。「恋ふる」という表現が大袈裟ではなく、読者の胸にも染み込んでくるようだ。「静電気」が俳句に詠まれるのは珍しいが、この作品はもともと「エアコン」などとともに、日頃あまり類を見ない新素材を詠み込むという雑誌の企画で実現したものである。お題拝借句というわけだが、あの不快な静電気現象を見事に美化した腕前は流石だと思う。「まとわりつく」「つきまとう」などの言葉を、しみじみと「恋ふる」に転化した想像力の冴え。ここにも、作句の要諦がある。静電気ショックは、受けやすい人とそうでもない人がいるという。体質にしたがうらしいのだが、私は受けやすい性質だ。職場の放送局などはいつも乾燥しきっているので、ドアのノブをさわるのもおっかなびっくりという有り様。心臓に悪い。傍目には見えないけれど、なかなかにつらいビョーキと言えるのではないか。「俳壇」(1997年6月号)所載。(清水哲男)


April 1442000

 針のとぶレコード川のあざみかな

                           あざ蓉子

ざ蓉子の句のほとんどは、字面で追ってもつかめない。イメージや感覚の接続や断裂、衝突を特徴としている。この場合は、感覚的に味わうべきなのだろう。すなわち、レコード(もちろんSP版、蓄音機で聞く)の針とびのときに感じる「あ、イタッ」という感覚と薊(あざみ)のトゲに触った感触とが照応しているのだ。この感覚的な理解からひっくりかえってきて、はじめて句は作者がレコードを聞いている光景を想起させるというメカニズム。窓から春の川辺が見えている部屋の光景も、浮かんでくる。戦後大ヒットした流行歌に「あざみの歌」というのがあった。「山には山の憂いあり」と歌い出し、「まして心の花園に咲きしあざみの花ならば」で終わる。恋の悩みを歌っているが、素朴なあざみの花をあしらったところに、この歌の戦後性が見て取れよう。身も心も疲れ果てていた若者の胸に咲くのだから、たとえば薔薇のような豪華な花では耐えられない。薊ほどの地味な野の花が、ちょうどよかったのだ。俳句でいえば「深山薊は黙して居れば色濃くなる」(加藤知世子)と、こんな感覚につながっていた。『ミロの鳥』所収。(清水哲男)


April 1542000

 野遊びの皆伏し彼等兵たりき

                           西東三鬼

地よい春の日差しを浴びて、のんびりと野に憩う仲間たち。楽しい一時だ。吟行の途次であるのかもしれない。そのうちに、一人二人と芳しい草の上に身を横たえはじめた。が、気がつくと、彼等はみな腹ばいになっている。一人の例外もなく、地に伏せている。偶然かもしれないが、仰向けになっている者は一人もいないのだ。その姿に、三鬼は鋭くも戦争の影を認めた。彼らは、かつてみな兵士であった。だから、こうして平和な時代の野にあるときでも、無意識に匍匐の姿勢、身構えるスタイルをとってしまうのである。兵士の休息そのものだ。習い性とは言うけれど、これはあまりにも哀しい姿ではないか。明るい陽光の下であるだけに、こみあげてくる作者の暗い思いは強い。「兵たりき」読者がおられたら、一読、たちどころに賛意を表される句だろう。明暗を対比させる手法は俳句のいわば常道とはいえ、ここまでの奥深さを持たせた句は、そうザラにあるものではない。『新改訂版 俳句歳時記・春』(1958・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 1642000

 耕人に傾き咲けり山ざくら

                           大串 章

の段々畑。作者は、そこで黙々と耕す農夫の姿を遠望している。山の斜面には一本の山桜があり、耕す人に優しく咲きかかるようにして花をつけている。いつもの春のいつもと変わらぬ光景だ。今年も、春がやってきた。農村に育った読者には、懐しい感興を生む一句だろう。「耕人」という固い感じの文字と「山ざくら」というやわらかい雰囲気の文字との照応が、静かに句を盛り上げている。作者自註に、こうある。「『傾き咲けり』に山桜のやさしさが出ていればよいと思う。一句全体に生きるよろこびが出ていれば更によいと思う」。山桜の名所として知られるのは奈良の吉野山だが、このようにぽつりと一本、人知れず傾き立っている山桜も捨てがたい。古来詩歌に詠まれてきた桜は、ほとんどが「山桜」だ。ソメイヨシノは明治初期に東京の染井村(豊島区)から全国に広まったというから、新興の品種。あっという間に、桜の代表格の座を占めたようだ。だから「元祖」の桜のほうは、わざわざ「山桜」と表記せざるを得なくなったのである。不本意だろう。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)


April 1742000

 天が下に風船売となりにけり

                           三橋鷹女

語は「風船」で、春の句。作者自身が「風船売」になったのではない。そのようにも読めるが、街で「風船売」を見かけて、すっと自分の心を重ねて詠んだ句だ。ただし、重ねたとはいっても、境遇や存在そのものを重ねたのではなく、「なりにけり」という感慨の部分で「風船売」と自分とを重ね合わせている。平たく言えば、彼は「風船売」、こちらは「俳句売」、いずれにしても「なりにけり」なのであり、もはや「風船売」も「俳句売(俳人)」も後戻りはできない。人生、お互いに取り返しはつかないのである。どちらの職業がどうなどと、言っているわけでもない。もはや、これまで。お互いに、ほとんど空気を売っているようなもので……と、いささかの自嘲も込められている。この句の諧謔性(飄逸味)を高く評価する人もいるけれど、諧謔を越えたなにやらしんみりとした味わいのほうへと、私の感受性は自然に動いてしまう。どんな職業の人であろうとも、いつしか「なりにけり」の感慨を持ちはじめるだろう。その職業に、満足しているかどうかは別問題だ。人生はおそらく「なるようにしかならぬ」のではなくて、結局は「なりにけり」にしか「ならぬ」のである。掲句は、そういうことを言おうとしている。『白骨』(1952)所収。(清水哲男)


April 1842000

 わが屋根をゆく恋猫は恋死ねや

                           藤田湘子

となく夜となく、屋根の上で狂おしくも鳴きわめく恋の猫。この句、だいぶ前から知ってはいたけれど、「恋死ねや」が理解できないまま頭にひっかかっていた。どういう意味なのか。「そんなに恋い焦がれていると、いずれ衰弱して死んでしまうぞ」ということなのだろうか。よくわからなかった。で、最近になってたまたま「俳句研究」(2000年4月号)を見ていたら、「湘子自註」という連載がはじまっており、句の自註が載っていた。「やった」と飛びついて、しっかりと読んだ。以下、全文。「(昭和)二十八年に大森の下宿から荻窪の下宿に移った。ばかに猫が多いと思ったのは、主の老婆が野良猫どもに餌を与えるからだった。隣家にはソプラノの発声練習を憚らぬ老嬢。大森とはまったく違った声、声、声。それでやや業を煮やした一句」。そうだったのか。私は、やや無理をして「や」を詠嘆的にとらえていたようだ。ストレートに「こいじねや」と読んで、「やかましいッ、お前なんぞは勝手に恋に狂って死んでしまえッ」と、業を煮やした末の怒りの発声だったのだ。しかも、うるさかったのは猫だけじゃなかったのだが、恋猫に八つ当たりをした句でもあった。しかし、そこまでは誰にも読めはしない。『途上』(1955)所収。(清水哲男)


April 1942000

 木蓮や母の声音の若さ憂し

                           草間時彦

ぶん、これは男の心だけに起きる「憂し」だろう。木蓮が咲いた。木蓮は、大きな蕾を得てからも、なかなか簡単には花開かない。今日か明日かと待ちかねていた母が、庭から「ねえ、咲いたわよ。見にきなさいよ」と、はしゃいだ声で作者に呼びかけてきた。彼女の声音は妙に若々しく、そこで作者の気持ちに微妙な憂鬱の影が走る。老いた母に、未だ残っている若い女の性。敏感にそれをかぎ当てて、一瞬「いやだな」と思ったのだ。大袈裟に言えば、母の声に母子相姦への誘いのようなニュアンスを聞き取った……。もとより、母は無意識だ。その無意識がたまらない。たいていの男は、幼時から母を性の外に置いて聖化して生きていく。嘘か誠かは知らねども、よく若い娘が「父親のような人と結婚したい」などと公言したりするけれど、嘘でも男はそういうことは口にできない生き物である。だから、母の側にも一瞬たりとも性的な存在であられては困惑してしまうのだ。どう反応したらよいのか、うろたえることになる。「木蓮」といういささか官能的な感じのする花を配して、句は見事に男の精神的な性の秩序のありようを描いてみせている。深読みではない、と思う。それ以外に「憂し」の根拠は思い当たらぬ。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


April 2042000

 蝌蚪の辺に胎児をささぐごとくたつ

                           佐藤鬼房

蚪(かと)は「蛙の子」、つまり「おたまじゃくし」のこと。なにせ俳句は短い詩だから、使う言葉も短いほうが好まれる。たとえば「かいつぶり」は五音だが、「にお(鳰)」と言い換えれば二音でまかなえるし、「ベースボール」は「野球」という翻訳語を使って同様に節約する。要するに漢語表現を珍重するわけで、それも少々使い過ぎで、日常用語としては通じない言葉までもが多用されてきている。さしずめ「蝌蚪」などは、その好例だろう。「おたまじゃくし」を見て「あっ、蝌蚪だ」と反応するのは、俳句趣味を持ちあわせている人くらいのものである。このあたりは、今後の俳句の考えどころだ。さて掲句だが、妊婦である妻とおたまじゃくしを見ている作者の感慨だ。「ささぐごとく」に、句の命がある。妊婦が足許あたりをのぞき込むときに、そおっと下腹に両手をそえるのは自然体だ。その姿を見て、作者は「ささぐごとく」と言っている。ここには妻への思いやりの心が溢れているし、蛙の子という生命体と「胎児」というまだ見ぬ生命体に共通する「命」への賛歌が奏でられている。地味だが、命の芽吹く春にふさわしい佳句と言えよう。『名もなき日夜』(1951)所収。(清水哲男)


April 2142000

 暗殺の寝間の明るさ蝶の昼

                           守屋明俊

句お得意の明暗対比の技法。どこだろうか。かつて歴史的な暗殺事件のあった家屋が公開されており、観光名所のようになっている。暗殺現場であったという寝間に入ってみると、とても伝えられるような陰惨な殺しがあった部屋とは思えない。説明の人が柱や欄間に残る刀傷を指さしたりしてくれるのだが、なんとなく腑に落ちるような落ちないような……。真昼の明るさが、暗殺の生臭さを遮るのだ。加えて、暗殺の政治的有効性がゼロになった現代という時代性が、かつての暗殺理解を拒むからでもある。部屋の障子は大きく開け放たれ、明るい庭に目をやると、蝶がひらひらと春風に流れているのが見える。どなたにも、きっと同種の体験はおありだろう。私など、こうした建物や部屋に入ったときにいつも感じるのは、昔の人(大昔からつい五十年ほど前までの大人たち)の平均的な背丈の小ささだ。「五尺の命ひっさげて」とある戦前の歌を証明するように、玄関からして首を縮めて入らないとゴツンとやりそうになる。だから、現代人はとてもあんなに小さな空間で刀なんぞは振り回せないだろう。心理的にはそういうことも働いて、史実の暗さや生臭さはいっそう遠のいてしまうのかもしれない。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


April 2242000

 行く春やみんな知らない人ばかり

                           辻貨物船

節の春はもとより、人間の春も短い。詩人は「行く春」の季節のなかで、みずからの青春を追想しているように思える。林芙美子は「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と、みずからの青春を「花」に擬したが、これは女性に特有の感覚だろう。女性に特有の感覚だからこそ、男に愛唱される一行となった。男の感覚には、存外まわりくどいところがある。ぴしゃりと「花」に行き着くことなどは、めったにない。根っこのところで、いつも行き暮れている。茫洋とし、かつ茫然としている。常識では、この様子を「シャイ」と言ったりするわけだが、正体を割ってみれば、行き暮れているだけのこと。ときに男が「蛮勇」を振るうのも、そのせいである。男の詩人にとっての詩は、いわば「蛮勇」の振るい場所なのだ。辻の最後の詩集のタイトルは『萌えいずる若葉に対峙して』と名づけられており、明確に「蛮勇」が露出している。ひるがえって、彼が真剣に俳句と遊んだ理由は、そこが必ずしも「蛮勇」を要求しない場所だったからだ。行き暮れたまま、そのままに内心を吐露することができたからだと思う。句の「知らない人」とは、もちろんアカの他人も含んでいるが、男の感覚にとって重要なのは、このなかには親も兄弟も、連れ合いも子供も、友人知己もが「みんな」含まれているところだ。「蛮勇」を振るわなくとも、俳句ではそういうことを「行き暮れ」たままに言うことができる。今年の春も、もう行ってしまう。『貨物船句集』(2000・井川博年編・私家版)所収。(清水哲男)


April 2342000

 揚げ物の音が窓洩れ春夕焼

                           三村純也

に「夕焼」といえば、夏の季語。もちろん一年中「夕焼」は現れるが、季節ごとにおもむきは異る。「春の夕焼」はいかにもやわらかく、夏近しを思わせる光りを含んでいて心地よい。そんな夕焼け空の下で、近所の家から揚げ物をする音が聞こえてくる。暖かいので、窓も細目に開けられているのだろう。だとすれば、美味しそうな匂いも漂ってきている。生活の音にもいろいろあるが、台所からのそれは、とりわけて人の心をほっとさせる。食事の用意には、家族の健康と平和が前提になるからだ。べつに何ということもない句ではあるけれど、この句もまた、揚げ物の音のように読者をほっとさせてくれる。このようにほっとさせてくれる句を、無条件に私は支持したい。他の文芸では、なかなか得られぬ感興だからである。作ろうとしてみるとわかるが、意外にこういう句はできないものである。凡句や駄句と紙一重のところで、ほっとさせる句はからくも成立しているとがよくわかる。いうところの無技巧の技巧が要求される。下手を恐れぬ「勇気」が必要となる。だから、難しい。「俳句文芸」(2000年4月号)所載。(清水哲男)


April 2442000

 うぐひすや寝起よき子と話しゐる

                           星野立子

くもなく暑くもない春の朝は、それだけでも快適だ。加えて、若い作者には、すこぶる寝起きのよい幼な子がいる。この場合の「寝起よき子」には、多少の親ばかぶりを加味した「かしこい子」という意味合いが含まれている。とにかく、自慢の娘(実は、現俳人の星野椿さん)なのだ。そんな娘と他愛ない会話をしているだけで、作者の気持ちは晴れ晴れとしている。ご満悦なのだ。近くで鳴いている鴬の音も、まるで我と我が子を祝福しているかのように聞こえている。そんな立子の上機嫌は、読者にもすぐに伝わってくる。昭和十年代も初期か少し前の作品だと思う。この国が大戦争へと雪崩れて行きつつあった時代だが、市井の生活者には、まだ目に見えるほどの影響は及んでいなかった。こんな朝の通りに出れば、どこからともなく味噌汁の香りが流れてき、登校前の小学生が国語読本を音読する声も洩れ聞こえてきただろう。戦前の映画で、そのような雰囲気のシーンを見たことがある。「時は春、日は朝、朝は七時、……」と書いたのはロバート・ブラウニングだったと記憶するが、句の鴬の鳴き声も、作者にはきっとこのように響いていたのではあるまいか。『立子句集』(1937)所収。(清水哲男)


April 2542000

 桃咲いて五右衛門風呂の湯気濛々

                           川崎展宏

かい夕刻のまだ明るい時間。作者は、宿泊先の民家で一番風呂のご馳走にあずかっている。五右衛門風呂はたいてい、母屋から少し離れた小屋に据えられているので、窓を開けると山や畑地がよく見える。眺めると点在する桃の花は満開であり、濛々たる湯気のむこうに霞んでいる。まさに春爛漫のなかでの大贅沢、天下を取ったような心持ちだろう。五右衛門風呂は鉄釜で湯をわかす素朴な仕組みの風呂で、名前は石川五右衛門がこれで釜ゆでの刑に処せられたという俗説に基づく。入浴時には水面に浮かべてある底板(料理で言えば落とし蓋みたいな感じの板)を踏んで下に沈めて入るのだが、これが慣れないと難しい。踏み外すと、大火傷をしかねない。弥次喜多道中で二人とも入り方がわからず、仕方がないので下駄を履いて入ったという話は有名だ。すなわち、江戸には五右衛門風呂がなかったとみえる。西の方で普及していた風呂釜のようだ。私が育った戦後の山口県の田舎でも、ほとんどの家が五右衛門風呂で、三十年ほど前までは現役だったけれど、さすがに今ではみなリタイアさせられてしまっただろう。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


April 2642000

 割り算でといてみなさい春の水

                           三宅やよい

りゃ、とけませぬ、やよい殿。読者にこう答えさせるのが、句の眼目だ。なぜ、とけないのか。私には、わからない。ただ不思議なのは、これが「夏の水」であったり「秋の水」であったりすると、なんとなく「とけ」そうな気のするところだ。すなわち、句は遠回しながら(もちろん故意にだけど)「春の水」のありようを言い当てているのである。言語的マジックの面白さ……。「割り算」を持ちだしてきたことからすると、作者はおそらく算数好きな人なのだろう。まったく逆とも考えられるが、そうだとしたら、このような問題(!!)は作らないと思う。算数嫌いの人は、この世にとけない問題など存在しないと信じ込んでいるフシがあるからだ。そんな問題が他人にはとけるのに、自分にはとけない。算数嫌いは、このへんからはじまる。だから算数嫌いの人は、極端に言えば、今度は自分に割り切れる問題だけを探しはじめる。とけない問題など、眼中になくなる。だから、こういう発想もしない。と言っても、あくまでもこれは「算数」レベルでの話。大学の教養課程くらいまでに勉強するのが「算数」で、それ以降の学問を「数学」と言う。友人の数学者が、若き日に酔っぱらって吐いた名言である。彼は数学者ゆえに、いまだに割り勘の勘定が上手にできない。『玩具帳』(2000)所収。(清水哲男)


April 2742000

 うららかや袱紗畳まず膝にある

                           久米三汀

の置けない茶会の席である。茶碗を受けたあとの袱紗(ふくさ)が、畳まれずにずっと膝にあるという図。いかにうちとけた茶会とはいえ、普段ならきちんと畳むところだ。つい畳まずにあるのは、この麗かさのせいなのだと……。三汀(久米正雄)は十代より俳人として名を知られたが、途中から小説に転じて成功をおさめた。と言っても、今日彼の小説を読む人がいるかどうか。同じ鎌倉に住んだ永井龍男に簡潔な人物スケッチがあるので、引いておく。「明治大正を通じて、狭い世界に閉じ籠っていたわが国の文学・文学者は、大正期の末頃からにわかに社会性を帯びたが、久米正雄は当時の文壇を代表して一般社会に送り出された選手であった。派手な才能人であっただけに、文学者として社会人として常に毀誉褒貶の中にいた。人前では微笑を絶やさず明朗な人であったが、傷つくことも多く、苦渋に顔をゆがめて独居するさまを、その自宅で私はしばしば見た。俳句は、そのような鬱を散じるためにあった。三汀の句は紅を紅、青を青と云い極める華麗さに特徴があった。句座での三汀は純粋であった」(『文壇句会今昔』1972)。また、相当な新しがり屋でもあり、放送をはじめたばかりのラジオを聞くために、自宅に巨大なアンテナをおっ立てた話を随想で読んだことがある。今ならば、間違いなくパソコンにのめりこんでいただろう。「文藝春秋」(1937年4月号)所載。(清水哲男)


April 2842000

 鴨のこる池が真中競馬場

                           飯島晴子

語は「鴨のこる(残る鴨)」。春先から鴨は北へ帰っていくが、春深くなってもまだ帰らずにいる鴨を指す。なぜ、残るのか。生物学的な解釈は知らないが、どことなくお尻の重い人を連想させられたりして、ほほ笑ましい。そんな鴨の浮かんでいる池が、競馬場の真中にあるというわけだが、実景だろう。競馬場ないしは競馬の句というと、とかくレースがらみの発想に淫しがちのなかで、かくのごとくに淡々たる叙景句は珍しい。だから、逆に際立つ。競馬ファンなら、ポンと小膝の一つも叩きたくなるはずだ。ただし、このような句はよほどの競馬好きの人にしか作れないだろう。場数を踏んでいないと、なかなか競馬場の池などには目が行かないし、ましてやそこに浮かぶ小さな鴨なんぞに気がつくはずもないからである。競馬好きの目と俳句好きの目が交互に影響しあって、はじめて成立した作品だ。このとき、作者にとっての肝心のレースはどうなっているのだろうか。もはや私には、想像できかねる世界だ。二十数年前、中山の有馬記念でしたたかにやられ、文字通りにとぼとぼと北風吹くオケラ街道を戻って以来、ふっつりと止めてしまった。『八頭』(1985)所収。(清水哲男)


April 2942000

 あすなろの明日を重ねし春落葉

                           丸山海道

葉樹とは違って、シイやカシ、ヒノキなどの常緑樹は晩春に葉を落とす。「あすなろ(翌桧)」はれっきとしたヒノキ科だから、落葉はやはり春だ。名前の「あすなろ」は「明日はヒノキになろう」の意で、地方によってはずばりと「アスハヒノキ」と呼んでいるという。他には「アスヒ」「シロヒ」「ヒバ」などとも。句は、大きな「あすなろ」の落葉が重なっている様子を「明日」の重なりに見立てたもの。すなわち、「明日はヒノキになろう」とする、その希望の「明日」が、ついに実現されることなく地上に幾重にも重なって落ちてしまっている傷みを詠んでいる。しかし、不思議に無残は感じられない。秋冬の落葉はうら寂しいが、明るい陽光に舞い落ちてくる春落葉は陽性だ。夏の日を前に、いっそ葉を落としてすっきりとしたような、そんな気分に感じられるからだろう。傷ましいとは思いつつも、作者は一方で「がんばれよ、そのうちきっとヒノキになれるさ」と、明るい顔で慰めてもいるのだろう。健気な「あすなろ」への激励句だと、ここは読んでおきたい。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


April 3042000

 つばくらや嫁してよりせぬ腕時計

                           岡本 眸

半世紀前の句。そのころの、ごく一般的な主婦の心情と言ってよいだろう。いわゆる専業主婦の作者が、買い物の道すがらでもあろうか、ついと飛ぶ「つばくら(燕)」の姿を見かけた。ああ、もうこんな季節にと、陽光に目がまぶしい。勤めていたころには日々忙しく、燕の飛来などに時の移ろいを感じるよりも、腕時計の表示に追われてあくせくしていた。どんどん、時は容赦なく過ぎていった。それが「嫁(か)して」より腕時計の必要のない生活に入り、こうしてゆったりと時の流れを実感することができている。言い慣らされた言葉だが、いまここにある小さな庶民的幸福感を詠んだ句だ。ただ哀しいことに、この句が詠まれた一年後に、作者の伴侶は急逝している。句とそのこととはもとより無関係なのだが、一読者としてそのことを知ってしまった以上は、掲句に対して冷静のままではいられない。人間、一寸先は闇。これまた言い慣らされたそんな言葉を胸の内に立ち上げて句に戻ると、まぶしくも辛いものがこみ上げてくる。『冬』(1976)所収。(清水哲男)




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